古代編第2節/律令国家の形成と展開1コラム/古代寺院・猪名寺廃寺(長山雅一)

猪名寺廃寺

  尼崎市の北東部、猪名川の支流・藻〔も〕川の西岸に猪名寺と呼ばれる地域があります。この猪名寺周辺の猪名川流域は、古くから猪名野または稲野と呼ばれた地域です。『日本書紀』応神天皇31年8月条は、新羅王から船造りの技術者が派遣され住み着いたことを記しています。
 その技術者は猪名部〔べ〕と言われる木工技術者でもあり、雄略12年と13年条によると、宮殿建設に関わっています。平安時代の『新撰姓氏録』では為奈部首〔いなべのおびと〕と書かれています。この一族と見られる氏族は畿内以外にも住んでいて、伊賀の木工の活躍が有名です。この猪名野は、以上のような技能を持つ技術者の居住地であったと考えられます。
 そんな猪名野に猪名寺廃寺〔はいじ〕があります。JR猪名寺駅から北東の旧村にこじんまりとした森があり、「摂津国 猪名寺廃寺址」の標識が尼崎市教育委員会によって建てられています。そこが猪名寺廃寺の遺跡地で、森を背景として法園寺〔ほうおんじ〕のお堂と庫裏が建ち、遺跡地の一部には佐璞丘〔さぼくがおか〕公園という児童公園が設けられています。遺跡地の前の道を東にゆるやかに左へ曲がって下ると、藻川の堤防に出ます。標高10mの洪積〔こうせき〕台地(伊丹台地)の先端にあたっていて、今は南方に民家が建ち並び見通しがききませんが、かつては尼崎市域を見下ろすことができました。また、寺の規模は現地形から方1町半(約160m四方)と推定されています。


猪名寺廃寺跡の森を南東から望む
猪名川の支流・藻川が東側を流れています。
平成18年撮影


猪名寺周辺の地形分類

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地名「佐璞丘」

  寺跡がある地名は今は猪名寺1丁目ですが、昔の小字名は「佐璞丘」〔さぼくがおか〕と言いました。「佐璞」とは唐の官制で左大臣のことをさす「左僕射〔さぼくや〕」に通じます。蘇我氏が滅んだ「乙巳〔いつし〕の変」(大化元年・645、大化の改新の年)ののち、都は孝徳天皇によって難波〔なにわ〕に移されました。その孝徳朝において左大臣を務めたのが阿倍内麻呂なので、内麻呂が創建に関わったとする考え方がありました。したがって、創建の時期は内麻呂が活躍した7世紀中頃とする説です。
 しかしながら、寺域から出土する瓦は、7世紀後半に飛鳥の川原寺で使われた川原寺式軒瓦(「猪名寺廃寺の軒凡」参照)です。出土する瓦の時期と地名に由来する創建時期とは年代が合いません。時代を決める手がかりとして瓦の時代観を優先させると、猪名寺廃寺の創建時期は7世紀後半と見るのが妥当でしょう。
 そこで、小字名が付けられた由来が気になります。猪名寺廃寺跡に現存する法園寺の「略縁起」(元禄9年−1696−作成)があり、法園寺の堂塔は法道仙人の徳を讃えた孝徳天皇によって建立されたとしています。この孝徳期創建説が江戸時代になって流布し、いつ頃かに左大臣阿倍内麻呂に由来する「佐璞丘」という小字名が付けられたのではないかと推測されます。
 境内にはいると長径2.35m、短径1.9m、高さ1.1mの大きさの花崗岩〔かこうがん〕製の塔心礎〔しんそ〕が目に入ります。もとは塔跡の中央にあったものが、大正年間に現位置に移されたと言います。礎石の上面に径74cm、深さ18cmの柱孔〔はしらあな〕が掘られています。ほかに舎利〔しゃり〕孔と言われる径12cm、深さ10.7cmの小孔がありますが用途は不明です。礎石の形状や置かれていた状況からも、創建期を7世紀後半とするのが妥当と思われます。


猪名寺廃寺創建期の軒丸瓦と軒平瓦  尼崎市教育委員会蔵


猪名寺廃寺の塔心礎
 石の中央に柱孔、右端に「舎利孔」が見えます。三重塔の心柱の礎石と推定されています。

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法隆寺式伽藍配置

 それでは、発掘調査の結果から寺跡を考えてみましょう。
 尼崎市教育委員会が昭和26年(1951)〜27年と同33年のトレンチ調査をまとめた報告書『尼崎市猪名寺廃寺跡』(尼崎市文化財調査報告第16集、昭和59年)を刊行しています。それによると、廃寺の遺構は右に金堂、左に塔が配置された法隆寺式伽藍〔がらん〕配置(図参照)として復元されています。トレンチ調査からは具体的な建物の状況は確認されていませんが、金堂と塔の基壇は凝灰岩〔ぎょうかいがん〕製の壇上〔だんじょう〕積み基壇と考えられます。旧地盤を掘り下げ、10cmほどの厚みでくり返し叩きしめた版築〔はんちく〕の工法で基壇が築造されています。これらの建築手法の点で、猪名寺廃寺は宮殿建築などと同様の一級の寺院建築であったと推測されます。
 伊丹市にある伊丹廃寺は、ほぼ同時期、同規模の寺院跡ですが、こちらは瓦積み基壇です。壇上積みと瓦積みを比べると壇上積み基壇が上位です。猪名寺廃寺の塔の心礎と近隣の寺跡に残された塔心礎を比較すると、規模と造りにおいて猪名寺廃寺に一日の長があります。この事実から、猪名寺廃寺はこの地域における中核を占める寺院であったと考えられます。
 中門や回廊、講堂跡についてもトレンチ調査が行なわれていて、報告書では言及されていませんが、地下に良好な状態で遺構が存在することが予想されます。したがって、この寺院跡を語るにはもっと考古学的な調査が必要です。本格的な発掘調査の実施と、それにもとづく史跡整備が望まれます。


猪名寺廃寺の伽藍配置
『尼崎市猪名寺廃寺跡』より


法隆寺式の伽藍配置 


金堂北辺から発掘された階段(最下段)と栗石 昭和33年、尼崎市教育委員会撮影(東から)

北回廊跡の瓦積み基壇 昭和33年、尼崎市教育委員会撮影(東から)

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