15世紀

1454年より転送)
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  年表:

  世紀: 14世紀 - 15世紀 - 16世紀


  1401年から1500年までの100年間を指す。

15世紀の年表

  • 1404年(応永11)
    • 6月8日 - 勝尾寺(現箕面市)の如法経供養にさいして、寺僧らが尼崎で槇槫を買い入れた。
  • 1409年(応永16)
  • 1412年(応永19)
    • 2月27日 - 報恩院領野間時友名のうちの名田醍醐田が佐阿闍梨の給分として安堵された。
  • 1413年(応永20)
    • 6月 - 神崎番匠が伊丹・湯山の番匠らとともに東寺御影堂の屋根のふきかえをした。
  • 1418年(応永25)
    • 6月20日 - 幕府は、尼崎から引き続き運送される興福寺の塔の材木について海および河上の諸関の関料免除などを命じた。
  • 1420年(応永27)
    • 6月27日 - 朝鮮使節の宋希璟尼崎に宿泊した。付近の農村の三毛作について記録している。
    • この年 - 日隆上人が本興寺を建立したと伝えられる。
  • 1422年(応永29)
    • 11月7日 - 野間荘時友名下司・公文職などが足利義持から三条坊門八幡宮に寄進された。
  • 1428年(正長元)
    • 9月 - 畿内一帯で徳政をもとめる土一揆が発生した。
  • 1429年(永享元)
    • 12月8日 - 多田荘(現川西市域)の百姓浄法らが徳政を要求した。
  • 1430年(永享2)
  • 1441年(嘉吉元)
    • この年 - 久我家領大島荘の半分を細川阿波守が拝領し、以後長禄元年まで阿波守の代官が同庄全体の年貢などを押領した。
  • 1442年(嘉吉2)
    • 2月24日 - 尼崎番匠の三郎太郎ら2人が童部3人を連れて勝尾寺(現箕面市)の塔の修造に加わった。
  • 1446年(文安3)
    • 10月 - 東大寺長洲荘に対する3か年に1度の守護段銭賦課の免除を幕府に訴えた。
  • 1447年(文安4)
    • 10月 - 富松三郎左衛門但馬守は、翌日富松村牛頭天皇社で千句連歌を興行するため、中原康富に発句を寄せてもらった。
  • 1449年(文安6)
    • 4月11日 - このころ、三条八幡宮領時友名は三宝院門跡が管領していた。
  • 1454年(享徳3)
    • この年 - 本興寺日隆上人が勧学院を創立したと伝えられる。
  • 1456年(康正2)
    • 5月27日 - 通玄寺領潮江荘は、諸国の諸庄園とともに造内裏段銭を課された。
    • 11月 - このころ、興福寺浜崎荘は不知行となっていた。
  • 1457年(長禄元・康正3)
    • 8月19日 - 大乗院尋尊は、春日社浜郷の代官浄南院を不法があったとして解任し、興福寺の寺僧柚留木重芸を代官にすると摂津守護細川に伝えた。
    • 12月19日 - 大乗院は浜郷の嘆願をいれて例年の請口料足20貫文のうち5貫文を免除し、その旨を代官柚留木に伝えた。
  • 1458年(長禄2)
    • 閏1月11日 - 大乗院尋尊は浜郷への守護段銭賦課に対して、前例どおり免除されるよう摂津守護細川に要請した。
    • 11月12日 - 浜郷春日社領分に対する守護反銭の催促停止を命じる守護免状が薬師寺安芸守らに下された。
    • 11月13日 - 将軍が、京都通玄寺領の難波村と別所を安堵した。
  • 1459年(長禄3)
  • 1460年(長禄4)
    • 10月9日 - 久我家は、大島荘の代官請負いを止めて直接知行できるよう幕府に訴えた。
  • 1461年(寛正2)
    • 5月16日 - このころ、管領細川勝元の被官田能村大和守は、田能村荘との訴訟に勝って久米井の用水をとりこんだ六車荘(原田荘)の領杭を再度抜き捨てた。
    • 5月 - 管領勝元の被官池田充正は、興福寺の訴えによって幕府が打った春日社原田荘の境杭を抜き捨てた。
    • 8月22日 - 幕府は興福寺の訴えにより、田能村大和守の所領を没収し用水を原田荘につけると申し渡した。
    • 8月 - 尼崎別所問丸友久が、東大寺油倉所から命じられて周防国衙の正税物の運送を請け負った。
    • 9月27日 - 興福寺の閉門をもっての訴えにより、幕府は逃走した田能村大和守を捜して死罪にすること、大和守の住宅への放火、大和守旧領得久名の上分を同寺へ渡すことを認めた。
  • 1464年(寛正5)
  • 1467年(応仁元・文正2)
  • 1468年(応仁2)
    • 11月20日 - 関白一条兼良の孫一条政房は、京都から兵庫へ行く途中で尼崎の東福寺門徒寺南朋庵に宿泊した。
    • この年 - 鳥羽船で尼崎に着いた遺明使の荷物が、摂津守護細川の奉書をもって尼崎公事船に積み込まれ兵庫に送られた。
  • 1469年(文明元)
    • 12月19日 - 大内方の仁保弘有が神崎城を守って山名勢を破り、仁保方の杭瀬新左衛門尉の下人や被官の多くが負傷した。
  • 1470年(文明2)
  • 1471年(文明3)
  • 1473年(文明5)
    • 3月17日 - 浜郷の代官柚留木(ゆるぎ)重芸は、浜郷の国代官に高岡弾正を任命した。
    • 3月20日 - 幕府は、通玄寺領の潮江および難波別所を安堵した。
    • 12月7日 - 大内政弘方の椙杜(すぎもり)弘康が、尼崎および大物城を守っていた細川四郎・薬師寺与次を攻め落とした。
  • 1475年(文明7)
    • 8月6日 - 大風と津波が襲い、海士崎で多数の家と1,000人余の人が波にさらわれた。
    • この年 - 本願寺蓮如は越前吉崎を退去し、丹波から摂津に入り西摂を巡行した。
  • 1476年(文明8)
    • 5月3日 - 大島荘本所分の代官安富盛淑は、翌年から戦乱が収まるまでのあいだ進納する年貢を増すことなど5か条の請文を久我家に提出した。
  • 1477年(文明9)
    • 4月19日 - 幕府は橘御園久々知村のうちの大番領を、真下常要の20年季の入質契約状どおり松平勝親が支配するよう裁決した。
  • 1478年(文明10)
    • 3月3日 - 大乗院尋尊は、武庫荘内菖原名および浜郷の代官として太田・吹田の両名にかえて伊丹親時を任命した。
    • 6月24日 - 泉涌寺は、潮江荘新免を先規のとおり直接知行するようにとの論旨をうけた。
    • 6月30日 - 幕府は、武庫荘恒松村・稲垣村、西小屋富松浜郷などの春日社興福寺領を押妨している者たちを退けて同寺雑掌の支配に戻すよう守護代に命じた。同年12月22日にも薬師寺元長に重ねて命令した。
    • 10月 - このころ、久々知村のうち貞延名・生島荘富松郷公田は京都三鈷寺が知行していた。
  • 1480年(文明12)
    • 12月10日 - 武庫荘預所名の代官吹田時通は、預所の興福寺松林院へ先例のとおり年始菓子用途・公事物の銭18貫文を納めた。
  • 1481年(文明13)
    • 12月25日 - 広田社は、同社の橘御園内地頭恒富代官職を請負わせている前田兵庫助が10余年算用せず過分の借銭があると称しているので糺明してほしいと、幕府に願い出た。
  • 1482年(文明14)
    • 2月14日 - 武庫荘代官吹田時通が大乗院に参上し、門跡分・預所分の年貢はともに前年・前々年分をすでに納め、公文岩佐の分も伊丹兵庫が納めており、不法のないことを主張した。
    • 3月8日 - 摂津守護細川政元が摂津にある諸家・諸社寺の本所領再興のため出陣した。
    • 3月26日 - 幕府は泉涌寺領潮江荘新免分を安堵した。
    • 4月7日 - 興福寺猪名荘浜崎荘浜郷など応仁の乱以後不知行の寺領の目録を細川が在陣する山崎に送った。
    • 9月19日 - 代官柚留木春雅は、年貢以下の沙汰を高岡弾正に命じた旨を浜郷の名主沙汰人に告げた。
    • 10月5日 - 西田新五郎助家が浜郷代官職の請文を大乗院に出し、翌年以降の年貢25貫文を請負った。
    • 11月 - このころ、興福寺松林院は、武庫荘の代官職を吹田時通から取りあげて一円の代官に太田対馬守を任命した。菖原名は以前のまま吹田に知行させた。
  • 1483年(文明15)
    • 4月5日 - 田近村が細川政春から小松荘の長芦院に寄進された。
  • 1484年(文明16)
    • 6月23日 - 大乗院は、前年に逐電した浜郷代官西田助家にかえて難波新左衛門を代官に、中尾新左衛門尉を国代官に任命した。
    • 12月13日 - 芦田元家の寄子山問光澄が、芦田と岸田数遠を請人として浜郷の代官職を請け負った。
  • 1486年(文明18)
    • 6月26日 - 久我豊通は、大島荘本所分を池田正盛に売り渡した旨を大島荘の名主百姓に告げた。
  • 1487年(文明19)
    • 2月19日 - 大乗院尋尊ら興福寺の僧は、有馬の湯へ向かう途中杭瀬で杭瀬船に乗りかえて尼崎に着き、大物浦で一泊した。
    • この年 - 大徳寺如意庵領鳴尾田から「富松城縄竹代」を出銭した記録があり、このころまでに富松城が築かれたと考えられる。
  • 1488年(長享2)
    • 10月29日 - 守護代の薬師寺長盛は、浜郷代官山問光澄が武庫川堤料などを守護方に納めず百姓らに非分をはたらくので、名主たちに訴えさせると大乗院に伝えた。
  • 1489年(長享3)
    • 1月20日 - 守護代薬師寺長盛の命令で生島浜郷名主中が、前年分の年貢5貫文を大乗院に納めた。
  • 1494年(明応3)
  • 1496年(明応5)

10年紀と各年

1400年代1400140114021403140414051406140714081409
1410年代1410141114121413141414151416141714181419
1420年代1420142114221423142414251426142714281429
1430年代1430143114321433143414351436143714381439
1440年代1440144114421443144414451446144714481449
1450年代1450145114521453145414551456145714581459
1460年代1460146114621463146414651466146714681469
1470年代1470147114721473147414751476147714781479
1480年代1480148114821483148414851486148714881489
1490年代1490149114921493149414951496149714981499
1500年代1500150115021503150415051506150715081509

  事項が少ないため、各年、10年紀はこのページへのリダイレクトです。

案内
広告
検索

  
ヘルプ
ツール
索引