1830年代

天保8年より転送)
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  年表:

  世紀: 18世紀 - 19世紀 - 20世紀

  10年紀: 1800年代 1810年代 1820年代 - 1830年代 - 1840年代 1850年代 1860年代

  各年: 1830年 1831年 1832年 1833年 1834年 1835年 1836年 1837年 1838年 1839年


  1830年から1839年までの10年間を指す。

1830年代の年表

  • 1830年(天保元・文政13)
    • 1月 - 生魚問屋若中が、新米の漁船との取引は月行司の差図に任せるべきことを定めた。
    • 3月1日 - 又兵衛新田地先に酉新田が開発され、検地が実施された。
    • 閏3月1~6日 - 尼崎西宮周辺数か所で伊勢のお札が降り、時友村や東新田村・道意新田にも降ったとのうわさが立った。
    • 閏3月10日 - このころから下旬まで尼崎・伊丹・池田周辺村々から参宮が続き、尼崎藩は抜け参りを禁じた。
    • 閏3月28日 - 幕府は、浜松藩水野氏領飛び地の摂河村々すべての公収を決定した。
    • 4月27日 - 浜松藩領摂河村々は、藩債の返還未了を理由に、飛び地の半分だけでも水野氏領のまま残るようにしてもらいたいと藩の郡方役所に願い出た。
    • 6月 - 浜松藩領摂河村々は、今後10年間は全村一括して幕府直領とする条件で公収された。
    • 6月 - 尼崎藩の用人が村々役人を召し出し、藩主の参府にあたって先に焼失した江戸上屋敷へ下屋敷御殿を移築したいので費用の調達手段の検討を依頼した。
    • 7月28日 - 尼崎藩領の摂津5組は、江戸屋敷再建御用銀の一部を大庄屋の連名で大坂商人から借り入れた。
    • 11月 - 西新田村ほか尼崎藩領11か村の綿繰商人30人が、年1両の冥加上納を藩に願い出た。
    • この年 - 儒者中谷雲漢尼崎藩松平氏に仕官した。
  • 1831年(天保2)
    • 2月 - 大和国からお陰踊り流行し、河内・摂津国へ拡大した。
    • 5月15日 - 儒者の伊藤新左衛門築地町の学校の教授師範としたので町在の希望者は申し出るようにと尼崎藩が触れた。
    • 6月19日 - 尼崎藩の郷廻り衆は、藩領村々や城下で盛んになってきたお陰踊りについて、質素に行なうよう触れた。
    • 6月 - 東富松村では、若衆を中心に振付け・衣装を整えて、尼崎城下や西宮小松村辺までお陰踊りの行列を繰り出した。
    • 11月2日 - 城下の繰屋が株札の下付を尼崎藩に願ったが、藩領村々の支障申し立てにより差し止めに決まった。
    • 12月 - 尼崎藩は翌年の収納米を引当てとして、藩領村々から御用銀を借り入れた。
  • 1832年(天保3)
    • 1月22日 - 常松西昆陽村など5か村は、この年12月から1年間西国街道武庫川渡し場の川越えに渡し船を使うことを許され、奉行所に請書を差し出した。
    • 2月28日 - 大鳥圭介尼崎藩領の赤穂郡細念村で生まれた。
    • 11月 - 幕府は兵庫と堺に菜種・綿実両種物問屋の設立を解禁した。
  • 1833年(天保4)
    • 6月 - 尼崎藩は、大庄屋4人に年貢米手形500俵分を渡し、大坂商人から銀50貫目を借り入れるよう依頼した。
    • 9月12日 - 加古川筋一揆が発生し、尼崎藩の飛び地領にも波及した。
    • 10月14日 - 尼崎で郷校を経営した伊藤蘭斎が没した。
    • この年 - 尼崎藩は米価高騰にさいして城下の米屋・米仲買人の他領売払い禁止などを命じた。
    • この年 - 大蔵永常が『綿圃要務』を刊行した。
  • 1834年(天保5)
    • 1月4日 - 泉屋利兵衛宅での銀札引替えを停止したので引替役所に群集がつめかけ騒然となり、翌日尼崎藩は引替え一時停止を触れた。
    • 1月9日 - 尼崎藩領村々では、藩の銀札引替え助勢のために冥加銀銭その他の上納を始めた。
    • 2月 - 尼崎藩が登用した石田小右衛門が、領内をまわって藩財政改革の趣旨を演説した。
    • 6月5日 - 田能村の治右衛門と中食満村の佐助は猪名川藻川で川漁を始めたことを大和田両村から漁場妨げとして訴えられ、大坂町奉行所に漁業差止めを命じられた。
    • 6月 - 米価騰貴により大坂市中で打ちこわしが発生した。
    • 7月8日 - 浜新田の総百姓は、西新田村からの分村を藩に願い出た。
    • 7月8日 - 郷校師範の伊藤新左衛門北窓が没した。
    • この年 - 夏の旱ばつにさいし常松村は井親と称して生島井溝をせき止めたため、生島4か村と争論になった(生島井組の井親争論)。
  • 1835年(天保6)
    • 5月30日 - 摂津・河内両国952か村は、肥料商人に対して値下げなどを触れてほしいと大坂町奉行所に訴えた。
    • 12月 - 幕府は元禄の国絵図改正を布令した。
  • 1836年(天保7)
    • 2月 - 尼崎藩は大坂商人など藩領外からの借財整理のため、尼崎町と摂津播磨両国の領村に御用銀の借り入れを申し入れた(この年までの藩の借財額は銀1,800貫)。
    • 7月7日 - 神崎村は藩の改革仕法冥加銀を上納したので、男女子供まで50人余が城内の大広間に通されて酒を下された。
    • 7月 - 七松村新右衛門ほか8人の道意新田株持ち百姓は、同新田の村役人たちが過去の経緯を承知し株仲間をないがしろにすることのないよう命じられたいと藩に願い出た。
    • 10月 - 幕府は灘五郷に四分の一酒造を命令した。
    • この年 - 酒造家の樽巻菰類の買入れが減少したが、尼崎荒物仲間は生産地村々の願いにより困窮の農民に限って菰類を買入れる約定を定めた。
  • 1837年(天保8)
    • 1月28日 - 尼崎荒物仲間7軒は、約定に反した取引きによって樽巻菰類生産村々の農民を動揺させた城下荒物商広島屋の商売差し止めを藩に訴え出た。
    • 1月 - 酉新田の新地主が下作人を断わって自作すると告げたため、開発時からの下作人の又兵衛新田百姓が動揺し騒ぎ立てる事態となった。
    • 2月19日 - 尼崎藩は国絵図・郷帳改正のため、元禄以降の変化についての報告を村々に命じた。
    • 2月19日 - 大塩平八郎らが決起し、大坂市中の商家などが火を付けられ市中に火災が発生した(大塩平八郎の乱)。
    • 2月19日 - 尼崎藩は、大塩平八郎の乱に対する警備のために家老以下の藩士を大坂に派遣し、城下東西の門や神崎今福辰巳の渡しなどの警備を固めた。藩領村々から人足100人が徴発された。
    • 3月11日 - 城下東町の小前の者が、八百屋・果物屋を襲うなどして群集し、4、5人が召し取られた。
    • 5月26日 - 尼崎藩は、尼崎猪牙船の打瀬網漁を向こう10年間、年間8か月を限って免許した。
    • 6月5日 - 尼崎藩が城下商人たちを世話人として計画した御銀札調達講の初会が開かれた。
    • 7月2日 - 能勢郡で山田屋大助らが蜂起した(山田屋大助の乱)。
    • 8月16日 - 大物町の東之町組頭たちの願いにより、尼崎藩が城下青物市立問屋株25株を免許した。
    • 11月 - 浜新田と西新田村は分村することで和談が成立し、尼崎藩へ訴えていた分村願いを取り下げた。
    • 12月 - 丸島開発を願い出た西新田村藤兵衛・浜新田平左衛門と開発に反対していた武庫川沿い村々とが開発条件について取替せを行ない開発が許可された。
    • 12月 - 中在家町植木屋由兵衛が、城下・在方村々での樹造り下株免許を尼崎藩に願い出た。
  • 1838年(天保9)
    • 1月 - 宮町樽屋治兵衛ほか2人が、土臼職株の免許を尼崎藩に願い出た。
    • 4月 - 幕府の御領巡見使が尼崎市域の幕府直領を巡見した。
    • 閏4月7~11日 - 幕府の私領巡見使尼崎藩領などを巡見した。
    • 8月2日 - 築地町の伊丹屋岑七の願いにより尼崎藩城下の麩屋株3株を免許した。
    • 8月5日 - 尼崎藩泉屋銀札の使用忌避および領外発行銀札の使用を禁じた。
    • 9月 - 西長洲村ほか尼崎市域34か村は、摂津・河内両国314か村ほかによる大坂三郷下屎代銀の支払い一件について調印した。
    • 10月5日 - 尼崎藩は、従来から通用している泉屋銀札城下の商人直場屋〔ねばや〕ほか2人の名前を加えて使用すると触れた。
    • 12月 - 尼崎城下の商人4人は、尼崎藩領村々および城下商人の一部に鶏を飼わせ卵の一部と上納銀を藩に納めるかわりに、鶏卵を一手に買集めることを許可されたいと藩の益役所へ願い出た(専売制)。
    • この年 - 尼崎城下の町人の人口は9,671人、家数は1,649軒であった。
  • 1839年(天保10)
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