16世紀

1536年より転送)
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  年表:

  世紀: 15世紀 - 16世紀 - 17世紀

  1600年と17世紀以降の年表は、10年紀(1600年代~)に記述。


  1501年から1600年までの100年間を指す(ただし1600年の年表は1600年代に記述し、ここでは扱わない)。

16世紀の年表

  • 1504~21年(永正ごろ)
    • このころ - 武庫川西岸にあった田近村が洪水にあい、村民は西昆陽村へ退転したと、西昆陽部落有文書に記録されている。
  • 1506年(永正3)
    • 5月21日 - 西園寺公藤が家領の富松荘を売却した。
  • 1508年(永正5)
  • 1512年(永正9)
    • 6月18日 - 細川高国尼崎において赤松義村の母と和睦について話し合った後、義村と和睦した。
  • 1519年(永正16)
  • 1520年(永正17)
    • 1月10日 - 越水城の合戦で、城方の大島の住人雀部与一郎・次郎太郎兄弟が、細川澄元方の田井堅頼を討ち取った。
    • 2月3日 - 瓦林正頼が城主である越水城が落城した。
  • 1526年(大永6)
  • 1528年(大永8)
    • 4月5日 - 鴨社長洲村の駕輿丁を取調べ、従来どおり48人について臨時課役などの免除の特権を確認した。
  • 1529年(享禄2)
    • 12月11日 - 幕府は、泉涌寺領潮江新免を森八郎左衛門尉の跡と称して違乱する者を退けるよう柳本賢治に命じた。
  • 1530年(享禄3)
  • 1531年(享禄4)
  • 1533年(天文2)
  • 1534年(天文3)
    • 8月11日 - 摂津守護の細川晴元にそむいて椋橋城にたてこもった三好伊賀守勢が、小中島の合戦で伊丹衆を破った。
    • 10月20日 - 三好伊賀守と一向一揆衆が潮江荘西の田中の合戦で伊丹・池田両衆らの三好政長勢を破った。
  • 1536年(天文5)
  • 1542年(天文11)
  • 1549年(天文18)
  • 1550年(天文19)
  • 1552年(天文21)
    • 2月6日 - 本願寺証如は、尼崎の日蓮衆が本興寺の寺内町建設に着手したので、定専坊了誓らを派遣して先年破却された大物総道場の建設を大物おとな衆に命じた。
  • 1556年(弘治2)
  • 1557年(弘治3)
    • この年 - 尼崎・鳴尾・明石に高潮被害があった。
  • 1558年(永禄元)
  • 1563年(永禄6)
    • 3月1日 - 細川晴元が芥川城で没した。
    • 5月13日 - 足利義輝が本興寺に禁制を下した。
  • 1564年(永禄7)
  • 1565年(永禄8)
  • 1566年(永禄9)
  • 1568年(永禄11)
  • 1569年(永禄12)
    • 2月28日 - 織田信長の軍勢3,000人余が尼崎に矢銭を賦課するため別所に陣取った。
    • 3月6日 - 尼崎衆は、織田信長の軍勢に抵抗したが30人余討ち取られ、長遠寺如来院を除いて町を焼き払われたと伝えられる。
    • 4月20日 - 織田信長は、京都曇華院領潮江荘散在と難波村の代官伊丹親興に、前年分年貢の寺納督促を命じた。
  • 1570年(元亀元・永禄13)
    • 2月16日 - 柴田勝家ら織田信長の部将たちは、飛鳥井雅敦の依頼により本興寺とその門前を安堵した。
    • 8月9日 - 三好方の安宅信康が尼崎に陣取った。
    • 8月13日 - 猪名寺伊丹城伊丹親興勢と安宅勢が戦い、安宅勢は尼崎へ退いた。
    • 9月12日 - 本願寺顕如は三好三人衆と結び諸国の一向一揆に挙兵を呼びかけ。
    • 9月28日 - 三好方の三好長治・篠原長房らが本興寺如来院に本陣をすえた。
    • 10月10日 - 篠原実長・長重が本興寺に禁制を下した。
    • 11月15日 - 木下秀吉は、織田信長が本興寺寺内の徳政免除を命じた旨を同寺の寺内惣中に伝えた。
  • 1571年(元亀2)
    • 11月22日 - 本興寺の東西南北四口の門前百姓らは、連名して本興寺へ忠節をつくす起請文を入れた。
  • 1572年(元亀3)
    • 3月 - 織田信長が長遠寺に禁制を下した。
    • 8月28日 - 島下郡白井河原の合戦に出陣した中川清秀に、尼崎の土豪田近氏・上島氏らがつき従った。
  • 1573年(元亀4)
    • 3月27日 - 織田信長は荒木村重を摂津守に任じ、摂津国を宛てがった。
    • 5月13日 - 篠原長房が阿波国河島で敗死した。
  • 1574年(天正2)
  • 1577年(天正5)
    • 7月7日 - 将軍足利義昭は、備後国鞆において因島水軍の村上祐康に尼崎を宛てがうとの奉行人奉書を発した。
  • 1578年(天正6)
    • 10月 - 荒木村重に謀反の意思があるという話が織田信長に伝わった。
    • 11月14日 - 羽柴秀吉ら織田信長配下の諸将が、荒木村重が籠もる有岡城を攻撃した。
    • 11月25日 - 中川清秀と和睦した織田信長の命により、これ以降田能を領する田能村伊賀守が相談役として清秀に供することになった。
  • 1579年(天正7)
  • 1580年(天正8)
  • 1580~83年(天正8~11)
  • 1582年(天正10)
    • 6月2日 - 本能寺の変が起こった。
    • 6月11日 - 秀吉は、尼崎の禅寺で明智光秀討伐の軍議を行なった。
    • 10月18日 - 羽柴秀吉が塚口神家に禁制を下した。同月池田恒興塚口に掟書を下した。
  • 1583年(天正11)
  • 1584年(天正12)
  • 1586年(天正14)
    • 3月21日 - 秀吉大覚寺の寺領の知行方についての法度を下した。
    • 4月13日 - 増田長盛は大島井武庫川取樋口の認定など3か条を大島村に申し渡した。
  • 1588年(天正16)
  • 1589年(天正17)
    • 4月19日 - 石田三成は、浜田村あてに検地帳記載作人の作職確認などについて掟書を下した。
    • この年 - 大井組は増田長盛の裁断で藻川口に新堰を築いた。
  • 1591年(天正19)
    • 5月14日 - 秀吉は、方広寺の造営用材を尼崎で調達するよう中川秀政らに朱印状を発した。
    • 10月1日 - 小田原落城にさいし、徳川方についた一部の北条氏の兵器・家財を尼崎組・大坂の中越組・駿河国沼津の船16艘が大坂へ運んだ。ついで家康が尼崎組井上又太郎同次郎左衛門と中越組の中越甚左衛門らを過書頭に任命したと伝えられる。
    • この年 - 北郷樋の用水をめぐって瓦林村々と鳴尾村および双方の加勢村々が武器を用いての乱闘を起こした。
  • 1592年(天正20)
    • 5月 - 大井組藻川口新堰をめぐって三平井組と大井組の村々が武器をもって乱闘を起こした。乱闘で6人が死に、双方の庄屋が京都四条河原で斬罪に処せられた(三平井組・大井組水論)。
    • 10月12日 - 前年の瓦林・鳴尾の水論で乱闘を起こした罪により、加勢の今北浜田・大島村を含む関係村々の人々が大坂ではりつけに処せられた。
  • 1594年(文禄3)
    • 9月 - このころ、摂津一国で検地が行なわれた。
    • 10月 - このころ、尼崎一円で検地が行なわれた。
  • 1600年(慶長5)

10年紀と各年

1500年代1500150115021503150415051506150715081509
1510年代1510151115121513151415151516151715181519
1520年代1520152115221523152415251526152715281529
1530年代1530153115321533153415351536153715381539
1540年代1540154115421543154415451546154715481549
1550年代1550155115521553155415551556155715581559
1560年代1560156115621563156415651566156715681569
1570年代1570157115721573157415751576157715781579
1580年代1580158115821583158415851586158715881589
1590年代1590159115921593159415951596159715981599
1600年代1600160116021603160416051606160716081609

  事項が少ないため、各年、10年紀はこのページへのリダイレクトです。

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