近世編第1節/幕藩体制の成立と尼崎4/城と城下町−城と武家屋敷地−(松岡利郎)




近世尼崎城の築城

 慶長20年(1615)大坂夏の陣で豊臣氏が滅ぶと、徳川幕府は大坂に近い尼崎の地を西国方面の押さえとして重視するようになります。その結果、元和3年(1617)これまで尼崎代官であった外様〔とざま〕の建部政長〔たてべまさなが〕に代えて、譜代〔ふだい〕大名の戸田氏鉄〔うじかね〕を近江膳所〔ぜぜ〕ヶ崎より尼崎に所替えさせ、新たなる築城を命じました。幕府から新城奉行4人が派遣されて普請〔ふしん〕工事を指示、旧来より規模を大きくして近世城郭にふさわしいものに改めさせました。尼崎城の築かれた当時は築城技術が絶頂期に達し、普請(土木)・作事(建築)が最も整備された時期にあたっています。そして寛永12年(1635)戸田氏鉄が大垣城へ転封された後は青山氏4代・松平氏7代が引き継いで在城し、明治維新まで藩政支配が続きました。

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縄張構成

 元和3年築城以前の尼崎にも前身をなす城が存在しましたが、「先下間後池田〔さきしもつまのちいけだ〕家系譜」に「天守これ無く櫓〔やぐら〕ばかり、四方の堀これ有り、五十間四方」と伝えられ、とくに見るべき城と言うほどでもなかったようです。これに対して近世の尼崎城は、古絵図から縄張(平面プラン)や建築など具体的な構成が知られ、整備された城郭であったことが明らかにされています。
 縄張は方形の本丸を中心に、その西と北に矩折〔くお〕れの二ノ丸、東に松ノ丸、南に南浜、また西に折れて西三ノ丸が螺旋〔らせん〕状にめぐり、さらに東側に東三ノ丸を設け、すべて石垣で構築しました。地形上、南側の海に面し、庄下〔しょうげ〕川から東方の大物〔だいもつ〕へ分流する水郷地を利用して水堀をまわした、いわゆる平城〔ひらじろ〕です。
 城郭建築・城内諸施設として、天守をはじめ隅櫓〔すみやぐら〕・門・塀・殿舎・役所・侍屋敷・倉庫・蔵などが建てられました。江戸時代の長い間に火災や天災による改修あるいは建物の増減があったと思われるものの、大きな変更はなく全体的な構成は引き継がれています。

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近世尼崎城の特色

 尼崎城の構成で特色をもっているのは、(1)本丸が方形をなすこと、(2)天守が四重とされること、(3)本丸大書院が特異な平面をとっていたことです。
 まず(1)の本丸について、60間四方に近い居館形式とされていて、壮大な御殿が造営されました。縄張上、方形は単純な構えで防備面から見て有利とは言えません。そのため周囲に長大な多聞〔たもん〕(多門)櫓をまわして防備を固める必要がありました。このような方形の本丸で防御する形態は、二条城・名古屋城・水口〔みなくち〕城・永原御茶屋など徳川将軍関係のものに共通して見られ、幕府の命令または意向により計画されたと考えられます。実際、元和5年に2代将軍秀忠が、尼崎城の普請を見物しているほどです。
 次に(2)の四重天守です。普通「四」は「死」に通じるとして忌み嫌うものですが、天守は造形的に多彩な建築であり、三重と五重の中間的なもの、かつ三重から五重に発展する過程を示すものと考えられます。あるいは将軍の五重天守に遠慮してのことかもしれません。とくに戸田氏鉄が尼崎築城以前に在城した膳所城の天守も四重であったことは注意すべきです。おそらく慶長3年の秀吉没後、家康が大坂城西ノ丸に入って四重天守を建てて豊臣側を牽制〔けんせい〕したことと関係あるものと思われます。しかも氏鉄が尼崎から移った先の大垣城天守も四重であり、他に大洲〔おおず〕城・大分城・八代城・桑名城などにも四重天守が存在しました。
 ところで(3)本丸御殿について、当初の建物は将軍の格式に準じる構成であったかと思われますが、弘化3年(1846)に焼失したため具体的なことはわかりません。その後に再建されたものは、古図によって大書院が梁間〔はりま〕の広い特異なプランをなしていたことが知られます。普通、書院造は上段・次之間・下之間を一列に、あるいは田の字形に部屋を間仕切りしますが、尼崎城本丸大書院はこうした伝統的な平面形式にのっとっていません。
 ここでは上段に向かう南北方向の対面軸を主としながら、大床に向かう東西方向の対面軸を交叉〔こうさ〕させて重複するように設計し、かつ多人数を収容するために広い室内空間を構成していて、旧来にとらわれない新しさが感じられます(後掲「本丸大書院復元図」参照)。

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武家屋敷の構成

 本丸は城主の住居とともに藩政機構をつかさどる中心施設であり、家老・側用人〔そばようにん〕・近習・目付・物頭などの家格に応じて、城内から城外まで多くの侍屋敷が配置されました。もちろん上位者ほど主要郭近くに位置し、屋敷規模も大小あって封建体制の格差を示すものでした。なかでも本丸大手の太鼓門前に位置する南浜(通称、五軒屋敷)は、重臣が住む重要な場所でした。
 その邸内の構成は、城代家老堀小三郎邸のみ判明しています。敷地の北側を正面とし、中央に長屋門を構えます。図に見るように長屋門を入った先に玄関があり、その左側に表向をなす座敷(上之間・次之間)、右側に台所・奥向・勝手を配しており、各部屋の関係や動線計画が察知されます。知行高によって武家屋敷の建築構成が異なるものの、表向と奥向・勝手を基本とする生活形態は同様であり、役職交代により居住者が変わることもありました。
 下位者になるにつれて規模が小さくなり、徒士〔かち〕・足軽衆などは長屋住まいの狭いものであったことと思われます。武家屋敷に限らず、城下の町家でも貧富による階級差はあって、「尼崎城下風景図」(尼崎市教育委員会蔵、上巻口絵参照)に描かれているような様々な住宅景観が見られました。旧城下の東桜木町には、近年まで寄棟〔よせむね〕造り・茅葺〔かやぶ〕きの足軽屋敷が残っていて、棟に雁振瓦〔がんぶりがわら〕をのせ、道に面する側に土壁、下半に腰板羽目〔こしいたはめ〕、細格子の出窓を付けるなど、かつての風情をとどめていました。市内で唯一の遺構でしたが、老朽〔ろうきゅう〕化がすすんでいたため惜しくも失われました。


〔参考文献〕
松岡俊郎「摂津尼崎城再考」(『地域史研究』22−1、平成4年9月)
同「尼崎城の五軒屋敷」(同前31−3、平成14年3月)


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