近世編第3節/人々の暮らしと文化1コラム/側室・澤田すめ(公手博)

澤田寿女

 寿女〔すめ〕は、摂津国西成〔にしなり〕郡大道〔だいどう〕村(現大阪市東淀川区)の郷士であった澤田左平太(義文)の妹です。この寿女が尼崎藩主松平忠告〔ただつぐ〕に召し出されたのが、寛政2年(1790)、18歳のときで、このとき忠告は49歳でした。男2人扶持〔ぶち〕、銀15枚頂戴〔ちょうだい〕、当時は万寸穂と称されていましたが、後に美佐、寿女と改名を仰せつけられました。格式は上臈〔じょうろう〕格で、中老を務め、のちに年寄格になりました。
 文化元年(1804)7月、忠告は参勤交代で江戸へ下向し、殿様不在中の12月13日、寿女は男子を出産しました。幼名千勝、のち主水〔もんど〕と改め、尼崎藩松平家としての第6代藩主・忠栄〔ただなが〕となった人でした。忠告には正室・側室の子供が合わせて22人あり、生まれたのは22人目、男子としては8番目の子供でした(本節1参照)。
 千勝誕生の翌文化2年12月10日に忠告は江戸において死去、64歳でした。その4年後の文化6年12月25日、寿女は暇〔いとま〕願いを出して許され、37歳のこのとき、加増されて5人扶持を頂戴しています。翌年3月27日尼崎城内より大坂西天満船大工町へ引き移りました。船大工町の近く、西天満の中之島に面した堂島川沿いには、尼崎藩の大坂蔵屋敷がありました(後掲地図参照)。
 文化9年3月20日、9歳になった千勝が江戸へ引き移るとき、寿女は供を仰せつけられて同道します。4月8日江戸到着、5月19日尼崎帰城、21日大坂西天満へ帰着しました。この際加増されて、生涯7人扶持を頂戴することになりました。文政元年(1818)7月24日、ふたたび江戸に召され8月1日到着、時に寿女46歳、我が子の千勝は15歳でした。8月10日には忠告の墓所・深川の霊願寺へ参詣、4代藩主忠宝〔ただとみ〕へお目通りし盃を頂戴、江戸滞在約10か月を終えて翌年7月12日尼崎城に帰っています。この間の記録として、兄左平太との間にかわされた書簡が澤田家の古文書(澤田兼一氏文書)に残されています。
 文政7年3月初旬、寿女は当時流行の風邪にかかり、いったんは快方に向かいましたがさらに重くなり、5月21日床に伏し症状も一層悪くなりました。
 6月2日には「大殿様(忠宝)より金二百疋、奥様より金百疋、当殿様(忠誨〔ただのり〕)より金二百疋、御新造様より銀一両、主水様より金五百疋とかたくり粉」などが寿女に見舞いとして下されましたが、ついに病状快復せず6月12日申〔さる〕の下刻に死去。澤田家の墓所・大道村大沢寺に葬られました。法名は「瓊珠院妙影日省信女」といいます。その後、忠栄からは周忌ごとに金三百疋が下されています。

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澤田寿女が住んだ西天満船大工町と尼崎藩蔵屋敷


澤田寿女が住んだ西天満船大工町と尼崎藩蔵屋敷(『新修大阪市史』第10巻図5「天保期の大坂三郷」より)
 大坂の中之島を中心とする堂島川・土佐堀川の川沿いには、諸藩の蔵屋敷(図中の小判形)が建ち並んでいました。

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寿女が遺した衣類の記録


寿女が遺〔のこ〕した衣類の記録(書き出し部分、澤田兼一氏文書)

 寿女の死去から2か月後に、兄の左平太が記した「覚え」を解読しました。
 「殿様」「奥様」「御姫君様」などから拝領したことがはっきりしている着物17点が最初に記され、合計95点の遺品が記録されています。側室と言っても男子の母親だからでしょうか、豪華な着物が並んでいます。

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澤田左平太

 寿女の兄・澤田左平太は、生涯を通して尼崎藩主にお目通りしたことが3回ありました。1回目は文化元年4月17日大坂の尼崎藩蔵屋敷においてで、妹の寿女が側室として懐妊中のこと。忠告にお目通りし、上下〔かみしも〕一具を頂戴しました。2回目は文政8年9月1日、寿女死去の翌年に尼崎城内大広間において藩主忠誨(忠告の孫、忠栄の甥)に初めてお目見えして言葉をかけられ、左平太の都合(歯が悪い)で藩の定宿有馬屋忠右衛門宅(尼崎城下大物〔だいもつ〕町)において、城内帳席の間の料理をいただきました(後掲図参照)。
 3回目は文政11年。藩主忠誨参府の途中に、左平太が住む大道村近くの淀川筋において船中お目見えをしました。ところが、翌文政12年4月14日、当時隠居中の前藩主・忠宝が60歳で死去して間もなく、8月27日には当代の藩主・忠誨が27歳の若さで亡くなってしまったのです。忠誨には跡継ぎの子供がなかったので、忠誨の叔父にあたる26歳の忠栄が、10月2日家督を継いで尼崎藩主となりました。
 忠栄の家督相続から12日後の10月14日、澤田左平太は60歳で死去しますが、その直前に、妹の寿女が尼崎藩主の側室として男子を出産して以来の夢が叶〔かな〕うのを目にすることができたのでした。

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尼崎城中、藩主お目見え時の澤田左平太自筆略図


尼崎城中、藩主お目見え時の澤田左平太自筆略図 (澤田兼一氏文書)
 右端に大物町の尼崎藩の定宿・有馬屋、中央上部に本丸御殿の玄関・大書院部分を描き、大物橋→東大手門→家老屋敷前→太鼓門→御殿玄関へと左平太の道筋を点線で記しています。御殿部分には、お目見え時の藩主・諸役人の位置と左平太の動線が克明に記録されています。

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澤田左平太家

 澤田家の先祖は慶長年間には大道村に住み、広大な土地を有していたようです。大坂の陣の際に徳川勢の大坂城攻めにあたって道案内をした功績で、江戸時代には郷士として士分の格をもっていました。また、大坂の陣に参陣した佐竹義宣や酒井忠世との縁で、その子孫である秋田藩佐竹氏や姫路藩酒井氏と時候の挨拶〔あいさつ〕などを取り交わしていました。
 澤田家は 、尼崎家・寺島家・山村家の大坂三町人のように町政に参画することはありませんでしたが、江戸時代には代々左平太を襲名し、家の存続のために将軍家との由緒を大切にしていました。

〔参考文献〕
『大坂再生』(大阪城天守閣、平成14年)

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