近世編第1節/幕藩体制の成立と尼崎9/新田を開く(岩城卓二)




大開発の時代

 平和が訪れた近世社会は、大開発の時代でした。人々は近くの荒れ地を開発し、耕作できる新しい土地を求めました。また河川の湾曲部や河口部にできる州〔す〕(土砂堆積〔たいせき〕部)までも新田として切り開いていきました。
 戸田氏藩政時代(1617〜35)にも新田は開発されていたと思われ、青山氏時代にそのスピードが加速したようです。幸成〔よしなり〕(藩主1635〜43)入封の翌年、今北村に長兵衛新田、翌年には東新田村に蓬川〔よもがわ〕新田・樋口屋新田、続く幸利〔よしとし〕時代(1643〜84)に角右衛門新田・道意〔どい〕新田等々、次々に新田が開発されていきました。
 尼崎藩は年貢増徴につながることから開発を奨励し、ときには開発を支援することもありました。たとえば、巡見の際、武庫川西岸の上瓦林・下瓦林村付近に荒れ地が多いことを確認した幸成は開発を命じました。しかし、武庫川の「すき水」(堤防からの湧水)のため開発が困難であることがわかるや、上流の上大市村内に池(鯨池)を掘らせ、そこから武庫川西岸の堤防沿いに川を開削〔かいさく〕させました。上瓦林ー下瓦林ー今津にまで及ぶ川(新堀川)ができたことで、「すき水」問題は解消し、助兵衛新田・久右衛門新田が開発されたのです。
 新田開発は藩領各地ですすめられました。とくに武庫郡では積極的に開発が行なわれ、寛文4年(1664)当時、すでに郡内に3,000石余りもの新田が開発されていました。開発はその後もやむことなく、その後の20年間で、藩領全体でさらに1,500石近くも開発されました。18世紀以降、次第に開発は鈍ってはいきますが、幕末まで続けられています。とくに海岸部では、大規模な新田開発が近世初頭から幕末まで見られました。
 こうした積極的な新田開発の結果、18世紀半ば、藩主松平家は将軍から与えられた知行高4万石とは別に、6,000石余りもの新田を掌握し、年貢を徴収していました。

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海岸部の新田開発

 17世紀、海岸部に開発された道意〔どい〕新田(大庄〔おおしょう〕地区)は、次のような経緯で開発されたと伝えられています。
 藩主青山幸利は鷹狩りの途中、たびたび西成郡海老江〔えびえ〕村(大阪市西淀川区)の中野道意〔どうい〕宅で針治療を受けていました。道意は幸利にたいへん気に入られたようで、道意は尼崎まで治療に出かけるようになりました。そのうちに新田開発の話が持ち上がり、海に面する葭島〔よしじま〕砂浜であった太布脇〔たぶわき〕の地が候補地となりました。開発には相当な費用と時間がかかるため、自分だけでは無理だと考えたのでしょうか。道意は親戚である大坂玉造の鍵屋九郎兵衛に相談します。そして、承応2年(1653)、鍵屋、道意の子中兵衛、鍵屋と中兵衛の妻の実家である海老江村西村家の養子次郎兵衛が開発を出願し、認められました。大坂町人や海老江村の周辺村の住人も加わり、開発がすすめられました。
 入植者もあり、明暦元年(1655)には海老江村の牛頭天皇社〔ごずてんのうしゃ〕が勧請〔かんじょう〕されました。「太布脇新田開発記」には寛文9年(1669)に検地帳が渡され、以後、道意新田と呼ばれたと記されており、同5年には藩から村高614石3斗7升6合、他に新田高29石1斗7升2合が掌握され、年貢はこれらの高に対して賦課〔ふか〕されるようになっています。
 寛文5年に年貢賦課対象となった毛付〔けつけ〕高(植付け完了分の石高)は村高のうち216石余りで、年貢として徴収されたのはわずか80石余りでした。村高に対して13%という低い年貢率です。新田への年貢賦課は開発奨励のため低く抑えられることが多く、数年間は年貢が徴収されないこともありました。道意新田もそうした新田の特権にあずかっていたものと思われますが、塩分を含む土地での農業は容易なことではなかったと思われます。毛付高が村高の80%を越えるのは、ようやく貞享4年(1687)のことですが、高潮のため村を囲む堤防が決壊し、全滅という年もありました。海岸部の新田開発が困難なものであったことがわかります。
 そうした困難にもかかわらず、幕末まで次々と海岸部に新田が開発されていきました。しかし、ときに排水や漁業への悪影響を危惧〔きぐ〕する周辺村や漁民が開発に異を唱え、大きな争いになることもありました。

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地親と下百姓

 道意新田は、地親〔じおや〕と下百姓〔げびゃくしょう〕と呼ばれる人々からなっていました。地親とは鍵屋や中兵衛のような開発人のことで、最初、開発は9名の地親で始められました。その後、新しい加入者や退く者がいましたが、地親は次第に増加し、元禄3年(1690)までに累計で32名を数えました。ほとんどの地親は大坂・摂津国西成〔にしなり〕郡・尼崎などに居住する不在地主で、寛文6年頃、村内に居住していたのはわずか2名でした。村内の田地は「株」として権利化されており、地親がこれを所持していました。数株所持する地親もおり、株は売買されました。
 この地親の土地を実際に耕作する下作人が下百姓で、特定の地親に属していました。たとえば清兵衛は、明暦2年に地親である野里村六右衛門の下百姓となりました。万治3年(1660)に六右衛門が鍵屋に田地を売却すると、その下百姓となり、清兵衛死後は、2人の子供が田地を耕作しました。宝永3年(1706)田畑が売却されると、両人ともにその地親の下百姓となっています。株が売られると、下百姓も新しい地親に属することになったのです。
 株を取得し、地親となる下百姓もいました。海老江村仁兵衛の弟長右衛門は、道意の子中兵衛の「留守居〔るすい〕」として、2株の田地を管理・耕作していました。その後、中兵衛が2株を売却するとき1株を買い、寛文6年に地親となりました。
 仁兵衛のような例があるものの、17世紀には下百姓から地親になる者は少なく、地親と下百姓は強い隷属関係にありました。庄屋は地親鍵屋の留守居庄兵衛、中兵衛の留守居長右衛門(下百姓時代)、庄兵衛の養子徳兵衛と続いており、地親の留守居とは言うものの、一応下百姓が村役人を務めていました。無筆であった長右衛門が適任者不在のため庄屋になったと言われていることから、実際の村落運営は不在地主である地親によってすすめられ、下百姓はその指示に従うだけであったものと考えられます。下百姓たちは検地帳も見せられず、また年貢率も知らないまま、地親の命じるとおりに下作料を納めていたようです。
 下百姓は、こうした関係を改めようと何度か立ち上がりました。もっとも大きな争いとなったのが天和2年(1682)のことで、下百姓が地親の非分を藩に直訴したのです。その結果、検地帳の写しを下百姓に渡すこと、下百姓から地親に納める下作料は隣村と比べて非分がないようにすること、溝・堤防修復に下百姓を動員するときは賃銀などを必ず渡すこと等が、藩から地親に命じられました。一方、下百姓に対しては、村政などは地親に任せて農業に専念することが厳命され、下百姓12人には厳しい処罰が下されました。
 こうした訴願が繰り返された結果、次第に下百姓の地位は向上し、地親になる者も増え、享保14年(1729)には自分で株を所持する者が13人になっています。しかしながら、地親になったからといってすぐに元からの地親と対等になったわけではなく、たとえば鍵屋の下百姓4人がその土地を取得しますが、すぐに地親「御仲間」の一員として立ち振る舞うことは憚〔はばか〕られたらしく、2〜3年経てから「御仲間」へと披露〔ひろう〕されています。これは宝永3年のことなので、18世紀になっても下百姓から地親になるには、さまざまな困難や障害があったものと思われます。


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高潮との闘い

 海に面し、堤防に囲まれた道意新田は、たびたび高潮に襲われました。
 寛文10年の高潮では、東と南の堤防が決壊し、村中の家が流失するという大被害に見舞われました。藩にその修復普請〔ふしん〕を願いましたが、自分たちで普請するよう命じられたうえに、それができないなら新田を捨てるようにとまで申し渡されてしまいました。しかし、大変な労力と資金をかけて開発をすすめてきた地親が簡単に新田を放棄することなど、できるはずもありません。再度願い出た結果、南堤防は村、東堤防は藩が普請することになりました。
 堤防の修復にはたいへんな労働力・費用だけでなく、土砂や材木が必要となります。安永3年(1774)6月の高潮被害を例にしましょう。
 この高潮では、道意新田をはじめ大坂湾岸の新田が残らず潮入りし、人家流出や家屋の倒壊など大きな被害に見舞われました。道意新田は、家屋倒壊は免れたものの、決壊した堤防から海水が流れ込み、田畑・家屋に大きな被害を受けました。
 決壊したのは東堤防1か所、南堤防2か所で、修復用の土を別の堤防から確保しようとしました。これは藩から却下されたようですが、杭木200本を藩から獲得することに成功した模様です。
 東堤防の普請は、尼崎と出屋敷の業者に銀2,400匁〔もんめ〕で請け負わせました。敷11間・馬踏〔うまふみ〕1間半・高2間5寸の堤防を修復するのに15日ほどかかっています。東堤防は藩が普請する決まりになっていたので、この費用は藩から支給されましたが、全額ではありませんでした。一方、南堤防は村中総出で修復されました。このほか、笠置〔かさおき〕・腹付〔はらづけ〕といった堤防の補強等々に、多額の出費を余儀なくされました。
 こうした苦難を乗り越え、18世紀中頃には土地も安定し、綿作も展開するようになりました。また江鮒〔えぶな〕の養魚を計画したり、城下近くの石垣にできた海苔〔のり〕を採取するなど、厳しい環境のなか人々はたくましく生き、生産に従事しました。明治初年には74軒、330人以上の人々が、この道意新田に暮らしていました。

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武庫川東岸の新田開発



 堤防の工事や砂防工事によって、氾濫原であった武庫川中下流域でも新田開発がすすみました。西岸では17世紀に中流、18世紀以降は下流域で次々と新田が開発されました。市域に属する東岸では17世紀から大規模な新田開発がすすみ、幕末まで続いたことが上図からわかります。
(武庫川中下流域の新田開発については、『岩波講座日本通史』12−平成6年−所収、水本邦彦「近世の景観」参照)


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大阪湾岸の新田開発



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