近世編第4節/幕末動乱期の尼崎藩1/幕末期の尼崎藩(岩城卓二)




ロシア軍艦、大阪湾に侵入する

 嘉永7年(1854)9月15日、紀淡海峡にロシアの軍艦が姿を現しました。艦名はディアナ号。全長約60m・幅約15m、帆柱は3本、60挺もの大砲を備え、乗組員は海軍中将プチャーチンをはじめ、約500人にも及びました。
 ロシア軍艦確認の報は、すぐに紀州藩や大坂城代にもたらされ、大騒ぎとなりましたが、ロシア軍艦はいとも簡単に岸和田沖・淡路島周辺へと帆をすすめ、17日には、兵庫和田岬沖に停泊しました。そして、翌日、御影〔みかげ〕・打出〔うちで〕・鳴尾沖を通り、大坂の喉〔のど〕もとと言える天保山沖2km余りに錨をおろしたのです。

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ロシア船侵入時の大阪湾海防の図



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ロシアとアメリカ

 近世初頭以来、幕府は対外貿易を制限し、ヨーロッパ諸国で通商関係にあったのは長くオランダのみでしたが、近世後期になると、欧米諸国がしきりに日本との通商を求めるようになりました。なかでもロシアは、早くから日本への接近を試み、寛政4年(1792)ラクスマンが漂流民大黒屋光太夫の護送を兼ね、蝦夷地〔えぞち〕根室に来航し、通商を求めました。さらに文化元年(1804)にはレザノフが通商を求めて長崎に来航しますが、幕府はロシアの度重なる要求には頑〔がん〕として応じませんでした。
 欧米諸国で最初に日本との和親条約締結に成功したのはアメリカです。嘉永6年6月、ペリー率いるアメリカ東インド艦隊の主力四隻が江戸湾入り口の浦賀(神奈川県)に投錨し、軍事的威圧を背景に友好関係・通商などを求め、翌嘉永7年3月、日米和親条約を締結します。幕府の拒否によって通商条約締結には至りませんでしたが、ロシアがどうしても開けることができなかった鎖国の扉を、遅れてやって来たアメリカが軍事的威圧によってこじ開けたのです。
 アメリカの軍艦が日本に向かったことを知ったロシアは、すぐにプチャーチンが指揮する4隻の艦隊を日本に派遣しましたが、長崎に到着したのは、ペリーの浦賀来航から1か月後のことでした。江戸ではなく長崎に来航したのは、オランダの助言に従い、幕府と友好的に交渉しようとしたからです。しかし、長崎では遅々としてことが運ばず、イギリス・フランスとの戦争(クリミア戦争)勃発〔ぼっぱつ〕を危惧〔きぐ〕したプチャーチンは、長崎を去ります。翌嘉永7年3月、長崎に再入港するもののすぐに退去しますが、9月突如として大阪湾に姿を現したのです。
 プチャーチンの側近によると、大坂に向かったのは、日本人は天皇の住む京都に近い「聖域」に異国人が現れたことに恐れおののき、早々にこちらの提案に応じると予測したためだと言います。プチャーチンはそれまでの態度を改め、急いで交渉をまとめるため、アメリカと同じく示威〔じい〕行動に出たのです。
 プチャーチンの思惑通り、この行動は幕府を驚かせました。すぐに下田(静岡県)で交渉が始まり、ついに12月、日米和親条約と大差ない日露和親条約が調印されました。

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「聖域」大阪湾の海防

 プチャーチンの侵入をたやすく許したことからわかるように、「聖域」であるにもかかわらず、大阪湾の海防はまことに不備なものでした。
 大阪湾海防が本格的に着手されるのは、イギリス軍艦フェートン号が長崎湾に侵入した事件の翌年、文化6年のことです。これは、当時オランダがイギリスと戦争状態にあるナポレオンの占領下にあったため、イギリス軍艦フェートン号はオランダ国旗を掲げて長崎に侵入し、オランダ船を拿捕〔だほ〕しようとしたのです。しかし、オランダ船がいなかったためフェートン号は日本船・中国船を焼き払うと脅迫し、食料・薪水〔しんすい〕を確保して退去しました。幕府は、長崎奉行と長崎警備担当藩であった佐賀藩主を処罰しますが、ヨーロッパでの戦争の余波が日本にも及んだことに驚き、大阪湾の海防にも着手しました。
 このとき大阪湾海防を担当したのは、近世初頭以来、大坂城守衛を任とする摂津国尼崎藩・和泉国岸和田藩と、おもに京都守衛を担う摂津国高槻藩でした。その後、河内国狭山藩、文政8年(1825)には異国船打払令〔いこくせんうちはらいれい〕発布にともない播磨国明石藩・姫路藩、摂津国麻田藩・三田藩、和泉国伯太〔はかた〕藩が加わりました。担当場所は細分され、大阪湾海防は次第に整えられていったように見えます。しかし、内海である大阪湾に異国船が侵入することはないという安心感から、大阪湾海防は緊張感を欠き、嘉永6年のペリー浦賀来航後も具体的な強化策は何もなされなかったのです。
 そのためプチャーチンの大阪湾侵入は、幕府を驚愕〔きょうがく〕させました。天保山周辺を中心に海岸線には大坂城守衛の軍隊や蔵屋敷・近隣諸藩の兵が繰り出し、大騒ぎとなりました。尼崎藩も、領分海岸、灘目〔なだめ〕(莵原〔うはら〕・武庫両郡の沿岸地帯)海岸筋、大坂へ派兵しました。さらに上陸に備えて京都守衛を担う藩が街道を警備し、彦根藩主井伊直弼〔いいなおすけ〕が率いる軍隊が京都に入りました。
 プチャーチンの大阪湾侵入は、「聖域」の備えがあまりに脆弱〔ぜいじゃく〕なことを露呈しました。以後、幕府は「聖域」にふさわしい海防体制の構築を余儀なくされたのです。

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幕府の畿内守衛構想

 幕府がもっとも重視したのが、大阪湾入り口です。紀淡海峡・明石海峡は幅4km程しかなく、ここの防備を固めることが大阪湾海防の鍵を握ったからです。和歌山藩・徳島藩・明石藩がその任を負いましたが、当初は土俵を積み上げた程度の貧弱な台場(砲台)もありました。しかし、幕府・朝廷の再三の命により、文久〜元治年間(1861〜65)には一応の体を備えるに至りました。
 湾内海岸筋の防備もなかなかすすみませんでしたが、安政5年以降は、兵庫〜西宮を長州藩、大坂市中海岸線を岡山・鳥取・高知藩、堺を柳川藩が担当することになりました。これは文久3年まで続き、以後は担当藩が頻繁〔ひんぱん〕に交代しますが、各藩とも本格的な台場は建設しなかったようです。
 この湾内海岸線の海防には、10万石以上の大藩が動員されています。プチャーチン大阪湾侵入前は、大坂城守衛を担う尼崎・岸和田両藩を中心に、大坂周辺諸藩によって担われていましたが、以後、当地には所領を有さない大藩が湾内海防の主役となったのです。尼崎藩も、当初は所領海岸線を越えて広く摂津国の海防を担いましたが、大藩の動員後はほぼ所領海岸線に限定されました。和泉国海岸線の分担はよくわかりませんが、岸和田藩も同様だったものと思われます。
 こうした尼崎・岸和田藩をはじめとする中小藩による海防への懸念と、大藩の軍事力への期待は、大坂城代や大坂町奉行も顕〔あら〕わにしていました。「小藩ではわずかな軍隊しか動員できず、とても長距離の海岸線を防備することはかないません」「幕府領だけの海防をするわけではなく、いざ事が起これば居城も守衛しなければなりません。また、城下と所領が離れている場合もあり、すぐに軍事行動を起こすことは無理かも知れません」と幕府に述べたのです。
 さらに大坂周辺には、実際に戦争になったとき諸藩の軍隊を統率できる大藩がいないことも、大坂城代の危機感を募〔つの〕らせました。京都守衛は、譜代〔ふだい〕大藩である井伊家を中心に、海防に加えて陸戦にも備えた防衛体制が構築できるのに比べて、大坂周辺の防衛体制はなんとも貧弱に見えたようです。
 こうした現地の危機感もあって、海防にも積極的に大藩が動員されるようになりました。それは、近世初頭以来、大坂城守衛をはじめ大坂守衛の中核を担った尼崎藩と岸和田藩の軍事力に、幕府が大きな期待を寄せなくなったということでした。

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文久3年以後の大阪湾内台場築造



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三百年の高恩に報いるとき

 しかし、尼崎藩の認識は異なりました。西国の要地を所領とし、大坂城守衛という重大な軍事的役割を担ってきた藩として、戦争の危機差し迫るいまこそ、その役割を最大限に果たさなければならないと考えていたのです。
 この論者の筆頭が、儒学者服部清三郎でした。服部は、いまこそ三百年の高恩に報いるときだと、ことあるごとに主張し、とくに長州戦争の危機が迫ってくると、その意見は一層過激になりました。 服部は、長州藩との戦争では「尼崎は関ヶ原の戦いのときの伏見城の心得をもって全力で防戦すべきである」「家中が死を覚悟で防戦したならば、長州藩がいかに手強〔てごわ〕くても簡単に尼崎藩の防衛を破ることはできない」と、「不義の長賊〔ちょうぞく〕」長州藩への敵意を顕わにしました。
 長州藩を迎撃するには西宮より東に侵入させないことが肝要だ、と服部は考えていました。それは、西宮から兵庫までのいわゆる灘目の北側は六甲山が迫る狭い平野で、東に向かうには、名塩〔なじお〕・生瀬〔なまぜ〕両村(現西宮市)から北播磨・但馬・西丹波に抜けるか、西宮を通るしかなかったからです。そして、西宮からは西国街道をすすむか、大坂街道をすすみ尼崎城下を通行する以外に東にはすすめません。そこで服部は、西宮を正門、名塩・生瀬を側門と位置付け、この3か所の守衛を固め、西国街道昆陽〔こや〕駅に近接する津門〔つと〕村(現西宮市)を守れば、長州藩の東行は防ぐことができると考えました。そして、六甲山から灘目の敵を攻撃したり、武庫川を利用して進軍を妨害することを目論〔もくろ〕みました。
 ところが、この服部の戦略には大きな障害がありました。戦略上の要地である灘目が明和6年(1769)の上知(あげち・じょうち)によって幕府領になっていたため、人足の徴発ができず、尼崎藩の軍隊がスムーズに行動できなかったのです。そこで尼崎藩は、明和上知以前の状態に復してほしいと幕府に願い出ました。しかし、すでに尼崎藩の軍事力に期待していなかった幕府は、この願いを聞き届けません。かつて尼崎城が「裸城」になると明和上知を厳しく批判した植崎九八郎の危惧は、幕末期に現実のものとなりました。


〔参考文献〕石井寛治『大系日本の歴史』12 (小学館、平成元年)、原剛『幕末海防史の研究』(名著出版、昭和63年)、岩城卓二『近世畿内・近国支配の構造』(柏書房、平成18年)

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幕末期、尼崎周辺概略図



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幕末期尼崎藩政の中心人物、服部清三郎



 天保10年(1839)、23歳の若き儒学者が、藩主忠栄〔ただなが〕に仕官しました。名は服部元彰。通称清三郎。
 同家は、京都の商家に生まれ、柳沢吉保〔よしやす〕に出仕し、後に荻生徂徠〔おぎゅうそらい〕に学んだ儒者服部南郭(1683-1759)を祖とします。南郭が開塾した芙蕖館は、江戸随一の繁栄と言われました。
 続く二代元雄は摂津西宮の神職の子で、南郭の養子となり同家を継ぎ、その後三代元立、四代元雅と続きました。
 元雅時代には、本多・小笠原・稲垣・伊達・青山・戸沢・京極等々の諸家へ出講し、この元雅のときに尼崎藩松平家に迎えられ、講義するようになりました。
 元雅は小山とも名乗り、忠告〔ただつぐ〕、忠宝〔ただとみ〕、忠誨〔ただのり〕に講義し、五代元済も出講しました。
 服部家と尼崎藩の関係が深まるのは、七代元彰の時代です。元彰は四代元雅の三男で、別家して習静館を開塾していましたが、六代元続が早世したため、本家を継いだのです。
 元彰は忠栄に仕官した当初は儒学者として学問を教授していましたが、次第に尼崎藩政に関わるようになりました。安政6年(1859)忠栄の諫諍役〔かんそうやく〕、つまりご意見番に任じられてからは、藩政の中枢で活躍するようになりました。
 忠栄が隠居し、若き忠興〔ただおき〕が藩主の座に就いた文久元年(1861)以降、軍事的要衝〔ようしょう〕を治める尼崎藩は、重大な政治的判断を求められるようになりました。また内政面でも藩財政再建という難問を抱えていました。
 この激動期、服部元彰=清三郎はさまざまな人脈を駆使して、実に膨大〔ぼうだい〕な情報を収集し、日々刻々変化する政治情勢を冷静に分析し、尼崎藩がすすむべき道を藩主に提言し、藩政を主導しました。
 維新後も、公議人〔こうぎにん〕として尼崎藩を代表し、公議所で活躍しました。
 彼が残した膨大な史料からは、幕末の激動期に苦悩する尼崎藩の動向を具体的に知ることができます。
 なお、服部家とその文書については早稲田大学図書館『服部文庫目録』が刊行されています。同文書を用いた研究としては、辻野恵美「幕末維新期における畿内・近国譜代〔ふだい〕藩の動向−慶応期の尼崎藩を中心に−」(『地域史研究』32-2、平成15年3月)があります。

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