近世編第1節/幕藩体制の成立と尼崎7コラム/契沖と近松門左衛門(中村光夫)

契沖の生涯と業績

 契沖〔けいちゅう〕は、江戸時代の初期、寛永17年(1640)に尼崎で生まれました。契沖の父・下川元全(通称・善兵衛)は、もとは熊本藩加藤氏52万石の家中ですが、寛永12年当時には尼崎藩5万石の大名・青山幸成〔よしなり〕に仕官していました。母は九州小倉細川家の家臣間〔はざま〕七大夫の娘で、契沖は6男2女の3番目の子でした。11歳で大坂今里の妙法寺(現大阪市東成区大今里)に入って出家、元禄14年(1701)62歳で大坂高津の円珠庵〔えんじゅあん〕(現大阪市天王寺区空清町)で亡くなりました。
 その生涯は、20代までの仏道修行と30代以後の日本の古典研究に大別されます。13歳から高野山で学び、修行僧を指導し教義を伝授する「阿闍梨〔あじゃり〕」という高い僧位まで得た真言宗の僧侶でしたが、現代では万葉集を中心とする古典の注釈と歴史的仮名遣〔かなづかい〕の研究において画期的な業績を残した「古典学者」として知られています。古典研究において契沖の研究方法が画期的なのは、中世以来の古典研究が朱子学や仏教などの教えを基準にした主観的、神がかり的、独断的なものであったのを排し、実証主義、文献主義、合理的帰納主義という近代的な方法を確立したことです。
 契沖は寛文2年(1662)23歳の頃に一度は寺の住職となったのですが、数年で諸国修行の旅に出てしまいます。そして、30歳から40歳頃まで和泉国の村の蔵書家の支援を得て、仏典や和漢書の研究に励みました。最初の5年間は和泉郡久井村(現和泉市久井町)の辻森家に寄食して同家所蔵の膨大〔ぼうだい〕な仏典や漢籍に親しみ、その後同郡万町〔まんちょう〕村(現和泉市万町)の伏屋家に招かれて邸内の養寿庵という小庵に寄寓〔きぐう〕、ここでも同家が所蔵する和漢書の研究に打ち込みました。
   これ以後、契沖は『万葉集』などの研究に没頭し、『万葉集』の注釈書『万葉代匠記』や歴史的仮名遣の研究書『和字正濫鈔〔わじしょうらんしょう〕』その他を著しました。契沖の歴史的仮名遣に関する説は、現代でも生きています。
 「古書を証するには古書を以てする」という契沖の実証主義・文献主義には、辻森家や伏屋家における文献研究が基礎にありました。元禄の頃、両家のような村落の庄屋層には膨大な蔵書を有する人たちが現れ、契沖のような研究者を後援していたのです。俳諧〔はいかい〕の松尾芭蕉などプロの文化人が現れた背景にも、文化的なパトロンとなれるだけの力を持った庶民が存在していました。元禄文化のひとつの特徴です。


契沖の碑 尼崎市北城内、尼崎市立中央図書館南
 尼崎市を中心に活動する契沖研究会が、契沖生誕の比定地のひとつである旧尼崎城西三の丸跡に建立した石碑です。

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契沖の生家

 契沖が生まれた当時、契沖の父・下川元全は尼崎藩では上級の家臣で250石を給されていましたが、もとは熊本藩加藤氏の重臣、1万石の家の出身です。元全の父、契沖の祖父・下川又左衛門元宣〔もとのぶ〕は加藤清正の絶大の信頼を得ていた家臣で、豊臣秀吉時代の朝鮮遠征の時には国元家老を務め5千石を給されていました。清正の子の忠広時代には藩主後見役3人の内の1人として1万石に加増され、父の没後に藩主後見役を継いだ兄の元真〔もとざね〕も知行高1万石でした。
 その一族が寛永9年の加藤家取り潰しによって熊本を離れ、運良く尼崎藩に仕官できて浪人を免れたとしても、知行250石の契沖の一家には没落の悲哀がつきまとっていたことでしょう。
 元禄文化の担い手たちに、契沖と同様、武士あるいは浪人の家の出身者が多いという指摘があります。松尾芭蕉は伊賀上野の郷士出身ですが、士分への取り立てをあきらめて俳諧師の道に進みました。貝原益軒は下級武士の子でしたが、儒者として仕官できるまで7年間浪人を経験しています。次に述べる近松門左衛門も、父は元福井藩士です。
 彼らのように元武士身分の人たちは、恐らく現実社会と自分の理想などとの葛藤を抱えていたでしょう。そして、世の中が平和で町人の経済力が高まっただけではなく、自身の葛藤を内面化し表現へのやみがたい意欲を持った契沖や近松たちのような人々が出現したことによって、元禄の文化が開花したのでしょう。


契沖が生まれた屋敷の比定(尼崎市教育委員会蔵「尼崎城下風景図」より)
 契沖の父・下川善兵衛は、250石の知行取りとして尼崎藩青山氏に仕官していました。尼崎城下では、知行250石クラスの侍の屋敷は、西三の丸、東三の丸または東屋敷の辺りに置かれていたので、その3か所のいずれかであったと考えられています。


〔参考文献〕
横田冬彦『日本の歴史』16(講談社、平成14年)


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近松、大坂へ

 近松門左衛門は、本名を杉森信盛と言い、越前藩士杉森信義の次男として承応2年(1653)福井に生まれたとの説が有力です。しかし、10代の半ばに父が浪人となったため、家族とともに京都に移り、20代から浄瑠璃・歌舞伎の作者生活を始めました。
 近松と尼崎の関係が生まれてくるのは、宝永2年(1705)大坂の竹本座が竹田出雲を座本に迎えて新体制で発足し、近松が座付作者となって大坂に転居して以後のことです。元禄年間(1688〜1704)には京都で宇治加賀掾や竹本義太夫の浄瑠璃、坂田藤十郎らの歌舞伎の作品を執筆していましたが、大坂に移り住んでからは浄瑠璃作りに専念します。大坂に来た近松は寺島(現大阪市西区千代崎)の船問屋・尼崎屋吉右衛門宅にたびたび逗留〔とうりゅう〕し、出入りする人たちから作品の取材をしたと伝えられています。


近松門左衛門像 
尼崎市久々知 近松記念館前

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広済寺と近松

 この船問屋・尼崎屋の二男が、久々知〔くくち〕妙見の神宮寺・広済寺〔こうさいじ〕(現尼崎市久々知)を再興した日昌上人です。その広済寺の堂舎再建のための開山講に近松が加わっています。享保元年(1716)の開山講中、翌年の開山百講中に近松とともに名前を連ねているなかには、大阪の浄瑠璃本出版業者の正本屋九右衛門や歌舞伎役者の嵐三右衛門・佐野川万菊などのほか、鴻池善右衛門などとともに十人両替を務めた加島屋作兵衛のような大坂の豪商の名前も見えます。正本屋九右衛門は、近松の作品出版を引き受けていました。嵐〔あらし〕三右衛門の初代(元禄3年・1690没)は尼崎の浪人の子供で、道頓堀に嵐座(現在の角座〔かどざ〕)を興した名優です。2代目以後も座本を務めています。
 このように近松と関わりのある大坂の芸能関係者も多いのですが、『摂津名所図会〔ずえ〕』には「近年妙見尊を信じることが多く、とくに久々知妙見・能勢妙見には参詣人が多い、…これを時行神〔はやりかみ〕と言う」と記されており、大坂だけでなく広い地域から多様な業種の人々が講中に加わったものと思われます。
 近松は、再興のなった広済寺をしばしば訪れ、亡母の供養を依頼したり、寺の一室で執筆もしたと伝えられていますが、残念なことに、尼崎市域の人々との交友はあきらかになっていません。
 近松は、享保9年(1724)11月22日に亡くなりました。生涯の劇作は浄瑠璃が110余編、歌舞伎40編前後。墓所は広済寺のほか、妻女と縁のあった法妙寺跡(現大阪市中央区)にも残っています。


久々知妙見祠 『摂津名所図会』より
 広済寺と隣接している妙見堂は、多田源氏の祖・源満仲〔みつなか〕が勧請〔かんじょう〕したと伝えられ、神崎渡しから塚口へ向かう有馬街道沿いの久々知村(現尼崎市久々知)にありました。


近松門左衛門の墓
尼崎市久々知 広済寺 国指定史跡
 近松と妻の法名が並んで刻まれている軸石は、高さ約48センチメートルの自然石(緑泥片岩)です。

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