近世編第3節/人々の暮らしと文化1/藩主の一生(岩城卓二)




寛文4年の大名

 寛文4年(1664)に大名は225人いました。大名の出自はさまざまですが、御三家・越前松平家・会津松平家などを一門、関ヶ原合戦以前より徳川家に仕えていた家を譜代大名、関ヶ原合戦後に徳川家に臣従した家を外様大名とすると、寛文4年には一門12人、譜代113人、外様100人となります。慶長8年(1603)年の大名185人から40人も増えていますが、これは一門・譜代大名が増加したためです。この頃は、大名の改易・取り立てが著しく、譜代大名の改易も珍しくありません。
 寛文4年の全国の石高は約2,500万石、このうち大名領は約1,835万石でした。1大名の平均領知高は8万石になりますが、加賀藩前田家のように100万石を超える大名から、1万石余りという大名までさまざまです。寛文4年は、平均して一門大名29万石、譜代大名4万7,000石、外様大名9万6,000石となります。
参考:藤井讓治「江戸開幕」『日本の歴史』12(集英社、平成4年)

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桜井松平家

 戸田家・青山家に続いて、宝永8年(1711)、遠江〔とおとうみ〕国掛川藩松平家が尼崎藩主家として入封し、以後幕末まで続きました。
 同家は「十八松平」あるいは「十六松平」と呼ばれた徳川家分家のひとつに数えられる名家です。『寛政重修諸家譜〔かんせいちょうしゅうしょかふ〕』によると、同家の祖・信定は徳川家5代長親の三男として生まれ、桜井郷(現愛知県安城市)を与えられたため、「桜井松平家」とも呼ばれました。
 その後、清定(家重)、家次、忠正、忠吉、家広、忠頼と続きます。所領は次第に増え、天正18年(1590)家広時代、武蔵国松山(現埼玉県比企郡吉見町)に1万石、慶長5年(1600)関ヶ原の戦い後、忠頼の時代に美濃国金山〔かなやま〕(現岐阜県可児市)に1万5,000石の加増地を得、翌6年には5万石の大名として遠江国浜松(現静岡県浜松市)に配されました。関ヶ原合戦前、浜松は豊臣系大名である堀尾家の所領でしたが、合戦後、関東・東海の外様〔とざま〕大名は西国・東国に移され、江戸と京都を結ぶ地域は一門・譜代〔ふだい〕大名によって固められたのです。
 ところが慶長14年、水野忠胤〔ただたね〕の江戸屋敷で催された茶会の席で、口論の仲裁に入った忠頼が横死〔おうし〕したため、所領は没収となりました。しかしその子忠重の時代、慶長15年に武蔵国深谷(現埼玉県深谷市)に8,000石を与えられたのを最初に、数回の加増を経て、寛永12年(1635)遠江国掛川(現静岡県掛川市)に4万石を領するに至りました。そして同15年には幕府の奏者番〔そうじゃばん〕に就きますが、翌年、39歳の若さで亡くなりました。
 跡を継ぐことになった忠倶〔ただとも〕はわずか6歳。信濃国飯山(現長野県飯山市)に転封〔てんぽう〕となったのち、5度目の大坂加番として在坂中の元禄9年(1696)5月、63歳で亡くなりました。

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松平忠喬

 忠倶には忠継という嫡子がいましたが、病気のため致仕〔ちし〕(隠居)し、その子忠喬〔ただたか〕が家を相続しました。実は忠喬には忠敏という兄がいましたが、24歳の若さで死去したため、次男の忠喬が相続することになったのです。
 『寛政重修諸家譜』によると忠喬は天和2年(1682)生まれとされていますが、同家家臣家に伝わる記録では翌3年正月9日が生年月日とされています。大名の子は、誕生後すぐに幕府に届け出られることはなく、育つであろうことがわかってから、しかも年齢は1、2歳、ときには数歳年長に届け出られることもありました。これは家督相続をつつがなく幕府から認めてもらうためでした。
 当時の年齢は数え年のため、現在の満年齢とは1、2歳の差がありますが、家臣家の記録に従うと、忠喬は14歳で家督を相続したことになります。ふつう家を継ぐ子は、10歳を過ぎると将軍に御目見〔おめみえ〕します。そして松平家クラスの譜代大名家の場合、元服の年とされる15歳前後で任官されます。任官とは朝廷から与えられる位階・官職の叙任のことで、病気のため致仕した忠継の場合、10歳で御目見を済ませ、14歳で従五位下筑後守に叙任されています。
 忠喬の場合は、そうした手続きを経る前に忠倶が死去したため、元禄9年7月に相続を謝し、はじめて5代将軍綱吉に御目見しました。そして同年12月に従五位下遠江守に叙任されています。
 その後の忠喬は、将軍綱吉の供として御三家紀州家の江戸屋敷へ行ったり、元禄11年7月から約2年間江戸城西之丸大手御門番を務めるなど江戸で過ごし、はじめて領地である信濃国飯山入りしたのは、元禄13年6月のことです。忠喬は幕閣入りしていませんが、表1からもわかるように、江戸にいる間はなにがしかの役を務めていました。享保6年(1721)には将軍家名代として日光山に参詣、同13年の将軍吉宗日光社参の際には警衛を命じられています。50年以上、当主の座にありましたが、この間江戸城西之丸大手御門番を12回務めました。その功あってか、寛延3年(1750)12月、従四位下に叙任されています。従四位下に叙任されたのは、同家では忠喬ひとりです。
 宝暦元年(1751)致仕し、約5年の隠居・療養生活を送ったのち、同6年2月死去しました。家臣家の記録に従うと、74歳の生涯を閉じ、尼崎の深正院〔じんしょういん〕に葬られました。
 忠喬は2回転封を命じられています。1回目は宝永3年遠江国掛川に、そして2回目が宝永8年2月の尼崎への転封です。譜代大名にとって転封は身近な問題であり、5年程度で転封というのも珍しいことではありませんでした。しかし18世紀以降は、譜代大名の転封も少なくなっています。

表1 在江戸中の松平忠喬
年 月 日 内   容
元禄10 (1697) ・4 紀伊家御亭供奉
元禄10・10・17 大塚辺りで出火、飯田町辺りに人数を差出す
元禄10・11・12 甲府綱豊御亭供奉
元禄11・7〜元禄13・6 西之丸大手御門番を務める
元禄13・5・8 4代将軍家綱23回忌供奉
元禄15・4・26 供奉
元禄16・11・18 四谷辺りで出火、増火消を務める
元禄16・11・28〜元禄17・6 浅草御蔵火之番を務める
宝永元 (1704) ・5・8 4代将軍家綱25回忌供奉
宝永2・6・12〜同年7月 西之丸大手御門番を務める
宝永2・7・18 桂昌院殿御仏殿御普請御手伝を務める
宝永6・正・13〜同年6月 5代将軍綱吉薨御につき外桜田御門外固を務める
宝永7・9・10 紅葉山常憲院殿御仏殿御作終につき供奉
宝永7・9・14 清陽院殿33回忌御法事につき供奉
宝永7・10・14 御門跡方東叡山御宮御仏殿参請につき中堂前固を務める
正徳2(1712)・10・14 6代将軍家宣薨御につき一橋御門固を務める
正徳4・10・14 6代将軍家宣三回忌御法事につき増上寺表門御番を務める
正徳4・11・14 公家衆東叡山御仏殿参請につき屏風坂固を務める
正徳4・12・22〜正徳5・5 浜御殿火之御番を務める
正徳5・5・16〜同年6月 西之丸大手御門番を務める


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歴代藩主とその家族

 忠喬は男子3人、女子11人の子に恵まれました。正室として宇都宮藩戸田忠真の娘を迎えましたが、14人の子のうち正室の子とわかるのは女子3人です。早世した男子が1人いますが、正室の子かはわかりません。つまり10人以上は、側室の子でした。
 正室は江戸、側室は江戸・尼崎で生活したようですが、ある程度確かな記録が残る1600年代以降に限っても、忠重以降、側室の子で藩主になった者が3人いたことがわかります。血筋を守り、家を継承するには、正室の外に複数の側室が必要だったと言えます。側室の子が当主になるのは決して珍しいことではありませんでしたが、幕府に提出する公式記録などでは側室ではなく正室の子として記録されていることも少なくありません。そして嫡子は正室の子が優先されたようで、たとえば、忠名〔ただあきら〕には元文5年(1740)に誕生した明堯〔あきたか〕という子がいながら、寛保2年(1742)正室に男子が産まれると、その子が宝暦元年(1751)に嫡子とされています。一方、明堯は「庶子たるにより家督たらず」、つまり側室の子であるため嫡子となることはなく、養子に出されました。
 20歳未満で藩主に就いた者は5人います。若年齢でも藩主となれたのは、藩にしっかりとした政治体制が確立しており、藩主個人の政治的力量だけで、藩の政治が動いていたわけではなかったからです。
 藩主の正室は大名家から迎え、初子誕生年齢から推測すると20歳代前半には結婚しています。忠倶が一番長く57年もの間藩主の座にありましたが、廃藩置県〔はいはんちけん〕を迎えた忠興〔ただおき〕を除くと、8人の平均在任期間は32年間です。9人の藩主のうち、5人が藩主のまま死去し、平均寿命は55歳。致仕後、最も長く隠居生活を送ったのは忠宝〔ただとみ〕で16年にも及びますが、彼は病気を理由に致仕していますので、隠居生活を楽しんだというよりは、長期の療養生活を送ったというのが正確なところでしょうか。藩主とは江戸と在国を一年ごとに行き来し、江戸・尼崎でも役務に神経をすり減らす毎日だったのかも知れません。
 正室も短命、病弱であった場合が少なくないようです。死亡年齢がわかるのは3人だけですが、忠宝夫人が56歳、忠名夫人が49歳、忠栄夫人は30歳と短命です。
 子は忠重から忠栄〔ただなが〕までの藩主に、男子31人、女子40人の合わせて71人生まれています(養女4人を除く)。しかし死産や幼児期の死亡が多く、確認できる範囲では、男子は半分近い15人が5歳までに死去し、女子のうち婚姻まで成長できたのは21人にすぎません。そのため長男として藩主となったのはわずかに2人で、忠喬以降は全員次男以下です。とくに忠栄は忠誨〔ただのり〕が子に恵まれなかったため、忠告〔ただつぐ〕の八男でありながら藩主となっています。また最後の藩主忠興も6人の兄が若年死したため、藩主に就いています。ただ、このときは相続候補者がもう1人いたらしく、一悶着〔ひともんちゃく〕あったようです(本編第4節1コラム参照)。
 大名の子は学問・文化の修養を積まされます。なかでも忠告は俳諧に優れ、俳名を亀文〔きぶん〕、一桜井〔いちおうせい〕と号し、大阪天満宮境内に談林〔だんりん〕派の祖・西山宗因〔そういん〕の句碑を、江戸の下屋敷には芭蕉庵の碑を建立しました。忠告の俳句は、忠宝によって『一桜井発句集』としてまとめられています。
 また忠栄は徂徠〔そらい〕学派の中谷雲漢〔うんかん〕を招いて聴講し、『胎厥編〔いけつへん〕』『喫茶問答』という自著をまとめています。
 嫡子となれなかった男子は婿養子先、女子は嫁ぎ先を探さねばなりません。これが結構たいへんだったようで、多額の持参金を用意しなければなりませんでした。婚姻費用も多額に及び、その負担は領民にも求められ、藩財政を悪化させる要因にもなりました。

表2 忠重以降、松平家当主の履歴
藩主
生没月日
母親
藩主在任年齢
正室生家
(藩名・石高は婚姻当時)
初子誕生年齢
死亡年齢
忠重〔ただしげ〕
慶長6(1601、月日不詳)〜寛永16(1639)2・12
正室
10−39
(豊後日出藩3万石)木下延俊家
39
忠倶〔ただとも〕
寛永11(1634)10・22〜元禄9(1696)5・26
側室
6-63
(伊予松山藩15万石)松平定行家
19
63
忠喬〔ただたか〕
天和3(1683)正・9〜宝暦6(1756)2・5
正室
14-69
(越後高田藩または下野宇都宮藩6.7万石)戸田忠真家
28
74
忠名〔ただあきら〕
正徳5(1715)8・6〜明和3(1766)12・24
正室
37-52*
(対馬対馬藩10万石格)宗義誠家
24
52*
忠告〔ただつぐ〕
寛保2(1742)5・26〜文化2(1805)12・10
正室
26-64
(信濃松本藩6万石)松平光雄家
25
64
忠宝〔ただとみ〕
明和7(1770)2・22〜文政12(1829)4・14
正室
37-44
(常陸土浦藩9.5万石)土屋篤直家
24
60
忠誨〔ただのり〕
享和3(1803)7.14〜文政12(1829)8・27
正室
11-27
(婚姻以前に死去)
-
27
忠栄〔ただなが〕
文化元(1804)12・13〜明治2(1869)9・7
側室
26-58
(豊前小倉藩15万石)小笠原忠固家
29
66
忠興〔ただおき〕
弘化5(1848)正・8〜明治28(1895)4・29
側室
14-20
(信濃松本藩6万石)戸田光則家
48

備考:表1・2ともに、地域研究史料館蔵、内田繁氏文書(1)、東京大学史料編纂所蔵「桜井松平家譜」により作成。( )内は『藩史事典』(秋田書店)その他による。*忠名の死亡年齢は、幕府届出では53歳。

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松平家系図



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江戸城の殿席と尼崎藩江戸屋敷

 諸大名が江戸城に登城してきた際に控える部屋は、出自来歴・領知〔りょうち〕の規模・朝廷官位によって決まっていました。これを殿席と言い、7つに分かれています。大廊下〔おおろうか〕は最高格式の大名が控える殿席で御三家・加賀前田家・越前松平家、大広間は外様や一門のうち四位の大名である島津・伊達・細川家といった外様大名や御三家の分家など、柳間〔やなぎのま〕は10万石未満の中小外様大名、黒書院溜間〔たまりのま〕は井伊・会津松平・高松松平・姫路酒井家のほかに、老中経験者から選ばれました。桜井松平家は帝鑑間〔ていかんのま〕で、松平の庶流諸家・榊原・本多・戸田などの有力譜代大名が詰めていた殿席です。ほかに雁間〔かりのま〕と菊間〔きくのま〕がありました。
 大名は幕府から江戸に屋敷を拝領しました。桜井松平家は、慶長15年(1610)頃に江戸の鍛冶橋内(千代田区)に上屋敷を拝領し、元禄9年(1696)には返上したようです。明暦4年(1658)に鉄砲洲(中央区)に屋敷を拝領し、尼崎藩時代はここが上屋敷でした。同家購入分も含めると1万坪をこえる広大な上屋敷でした。ほかに、元禄9年(1696)深川新大橋向に5,000坪の下屋敷を所持していましたが、安政6年(1859)深川小名木沢(江東区)の紀州藩の屋敷1,000坪と交換し、以後ここが下屋敷となっています。こうした大名屋敷の交換は、珍しいことではありませんでした。

〔参考文献〕
笠谷和比古「武士の身分と格式」(『日本の近世』7、中央公論社、平成4年)。
江戸城御殿については、深井雅海『図解・江戸城をよむ』(原書房、平成9年)が詳細に叙述しています。

もっと詳しく調べるには
 大名・旗本の家系を調べるには、幕府が編さんした『寛政重修諸家譜〔かんせいちょうしゅうしょかふ〕』(続群書類従完成会)が便利です。ただ、おおむね18世紀終わり頃までしか記載されていないので、以後は、各家で編さんされた「家譜」類を当たらなければわかりません。その家の領知があった自治体史には「家譜」が掲載されていることがあります。また、華族になった大名家史料の所在は、学習院大学史料館編『旧華族家史料所在調査報告書』(平成5年)が便利です。

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