近世編第2節/成長する西摂地域2コラム/農具(岩城卓二)

農具の普及

 近世の西摂〔せいせつ〕(摂津国西部)農村は、商業的農業が展開する先進農業地域として大きく発展しました。これを支えたのが、農具の普及と改良です。
 正徳6年(1716)の潮江村の記録によると、この時期すでに多くの農具が普及していたことがわかります。唐鋤〔からすき〕は牛馬用の耕起器具として古墳時代以降、中国から伝わり、その後改良を重ね、前近代の農業を支えた代表的な農具です。宝永8年(1711)当時、尼崎藩領には3千頭以上の牛が飼われていました。多くは農耕用であったと思われます。一方、馬は150頭程度に過ぎないので、西摂農村の農耕動物の主役は牛で、唐鋤はおもに牛用だったと言えるでしょう。
 やはり中国から伝来後、近世前期に近畿地方を中心に普及した龍骨車〔りゅうこつしゃ〕も、当地で普及していた農具のひとつです。用水路や溜池から段差の少ない水田への揚水〔ようすい〕に用いられ、形状が龍の骨のようであることから命名されました。潮江村の記録では、百姓は各自、龍骨車を所持していたとされます。しかし、耐用年数が5〜6年程度はあるとは言うものの、銀40〜50匁〔もんめ〕程度であったものが高騰〔こうとう〕し、この頃には130匁程もする高級品でしたので、本当かどうかわかりません。
 17世紀後半には、龍骨車に替わって、踏車〔ふみぐるま〕が広まったと言われています。踏車は寛文年間(1661〜73)に大坂で発明され、龍骨車に比べると丈夫なうえ、構造も簡単でした。ちなみに寛延2年(1749)の下坂部〔しもさかべ〕村には踏車40両、宝暦元年(1751)の椎堂〔しどう〕村には龍骨車3両・踏車7両、同2年の富田〔とうだ〕村には各5両の所持が確認できます。踏車も決して安価な農具ではありませんでしたが、広く普及していたことがわかります。

18世紀初頭に普及していた農具
農具名 用 途 代銀(匁) 耐用年数/所持数など
唐鋤〔からすき〕 牛用の耕起具 20 「へら」は毎年仕替
同さき 2.5 田地3反鋤く
馬鍬〔まぐわ〕 馬用の耕起具 28 10〜15年使用
鍬〔くわ〕 人力の耕起具 15〜16 1年に2度「さき」が欠ける
同さき 5 1丁の1年の経費
龍骨車〔りゅうこつしゃ〕 人力の揚水具 130 5〜6年使用
肥担桶〔こえたんご〕 肥の運搬具 10〜121 8〜10年使用、人により2〜5荷所持
刈取具 5 人により毎年3〜8丁新調
稲扱き〔いねこき〕 脱穀具 9 3〜4年使用、人により2〜5丁所持

備考:正徳6年「潮江村諸色書下帳」(『尼崎市史』第5巻、781〜791頁)により作成。代銀は1丁・両当たりおおよその値段。


龍骨車による揚水作業
写真提供:滋賀大学経済学部附属史料館


踏車
『尼崎の農具』(尼崎市教育委員会、昭和60年)より

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 16世紀から17世紀にかけて製鉄技術が大きく発展しました。時は戦国時代、鉄は武器の生産に大いに役立つとともに、製鉄技術の革新は農業や手工業にも大きな影響を与えました。太閤検地でわずかな土地を獲得した小農民たちは、安価で便利な農具を手に入れ、労働生産性を高めたのです。近世農業発展の背景には、製鉄技術の革新と、それがもたらした農具の普及・改良があったと言えるでしょう。
 その代表が鍬〔くわ〕です。おもに人力による耕起に用いられる鍬は、古くは柄・刃先ともに木製でしたが、次第に刃先には鉄材が用いられるようになりました。そして近世に入ると、砕土・代掻〔しろかき〕など用途と土質に応じてさまざまなものが登場します。
 なかでもよく知られているのが備中鍬〔びっちゅうぐわ〕です。木製の柄に2〜5本の刃がある鍬で、土に接する面積が小さいため板鍬よりも便利でした。おもに水田の荒〔あら〕起こしに用いられたほか、原野の開墾や土木工事にも威力を発揮しました。近世の新田開発は、こうした農具の登場が可能にしたとも言えるでしょう。
 農民は用途と土質に適した鍬の改良に努力し、村ごとに柄・刃の長さ、刃先の幅などが違ったとさえ言われています。
 近世後期の代表的農学者である大蔵永常〔おおくらながつね〕(1768〜?)は、著書『農具便利論』(文政5年刊・3巻)において、農作物や土質に適応した農具選択の必要性を述べ、各地の鋤・鍬・灌漑〔かんがい〕器具などを図解しました。そのなかで尼崎の鍬のことを紹介しています。
 それは「尼崎辺りのねば土に用いる鍬」で、前屈〔かが〕みになって手元へ引く鍬です。柄と刃のつくる角度がたいへん鋭いのが特色で、地上に立てて置いたときの柄の頭の高さが地上より1尺8寸(約55cm)しかありません。3尺程度はあるのが普通なので、たいへん背が低かったことがわかります。ところが柄は長く、4尺5寸もありました。この形状が強いねば土には適していたようで、砂地や真土用に比べると特色ある鍬でした。軽くて使いやすい鍬でしたが、乾燥すると柄がゆるみ、修理が必要になるという欠点もあったと記録されています。


備中鍬〔びっちゅうぐわ〕
『日本農具図説図譜』(帝国農会、大正2年)より


尼崎のねば土用鍬 前掲『尼崎の農具』より
 江戸時代に出版された『農具便利論』に紹介されている「尼崎くわ」とほぼ同じ形状。柄の取り付け部分(矢印)が湾曲しています。

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千歯扱と農具の製作地

 千歯扱〔せんばこき〕は、近世の代表的農具として有名です。16世紀末から17世紀初頭頃に発明されたと言われ、稲や大麦の脱穀に用いられました。台木に20本程の鉄や竹の歯を並べ、歯の間に穂をはさんで籾〔もみ〕を扱〔しご〕き取ります。それまでの扱箸〔こきばし〕よりもはるかに脱穀の能率が上がり、女性、とくに寡婦〔かふ〕の仕事を奪ったので「後家倒し」とも呼ばれました。
 農具はほとんどの場合製作地が不明ですが、市立文化財収蔵庫にはこれがわかる千歯扱が保存されています。幅は約150cm、2人用の麦扱〔むぎこ〕きと考えられており、墨書きから天保13年(1842)に堺で製作されたことがわかります。同種の麦扱きは大坂近郊に分布していたことや、大坂・堺が産地であったことが知られていましたが、この千歯扱はそれを裏付けた点で貴重だと言われています。
 その他、製作地が知られる例はわずかですが、大正年間(1912〜26)までは大坂(大阪)が市域農村の主要な農具供給元であったと推測されています。西摂農村の発展にとって、商品の販売先以外でも大坂が大きな役割を果たしていたことがわかります。


千歯扱 上:側面、下:正面
前掲『尼崎の農具』より

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財産としての農具

 時代とともに安価になったと言われる農具ですが、決して誰もが簡単に買えるような代物ではありませんでした。18世紀初頭で米1石=銀60匁程度であることを考えると、15〜6匁もする鍬は高価な買い物です。『農具便利論』では6〜7匁とされますが、それでも18世紀初頭の農村奉公人の給銀が1年で男21.2匁、女18.5匁程度(武庫郡西昆陽〔にしこや〕村氏田〔うじた〕家奉公人の場合)であったことからすると、決して安価とは言えません。そのため手入れに精を出したようで、維持に相当の金額を費しています。
 幕末のことになりますが、下坂部〔しもさかべ〕村の百姓伊之助が破産したため、同家の財産は処分されることになり、財産リストが作成されました。そのなかには鍬・備中鍬・四つ手・熊手などの農具が含まれており、また、綿繰り器・綿打ち槌〔つち〕・唐弓〔からゆみ〕・糸車といった綿加工に必要な道具類も見えます。当時、村内に6石余りを所持するに過ぎない同家にとって、農具は大切な財産であったことがわかります。

〔参考文献〕
『尼崎の農具』(尼崎市教育委員会、昭和60年)

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