近世編第2節/成長する西摂地域6/行き来する舟(大国正美)




尼崎渡海船と大坂

 江戸時代、大坂は西国や北国の物資が集められて江戸へ運ばれる拠点となり、天下の台所と呼ばれましたが、淀川は河口が浅く、市中に大型の廻船が直接乗り入れるのは危険でした。そこで兵庫津(現神戸市兵庫区)などで渡海船〔とかいせん〕と呼ばれる小舟に荷物を積み替え、大坂市中の蔵屋敷などに運ぶのが一般的でした。尼崎港も河口が浅く渡海船は百石以下の小舟でしたが、船数は兵庫や西宮などより多く、貞享年間(1684〜88)には241艘、享保19年(1734)には266艘となり、以後船数を固定したようです。元治元年(1864)当時中在家〔なかざいけ〕町浜、別所町浜、辰巳町浜、大物〔だいもつ〕東之町浜、大物中之町浜に仲間筆頭と組頭がいました。また神崎にも船があり、大坂での錨つなぎ場は、尼崎船が雑喉場〔ざこば〕西国橋(大阪市中央区横堀と西区土佐堀間)、神崎船が八軒屋(同市中央区京橋)と決められていました。
 元禄10年(1697)と同15年に、尼崎渡海船が大坂の川内で荷物を積もうとした際、大坂上荷船茶船仲間が妨害したため裁判を起こしています。しかし大坂町奉行所は尼崎渡海船の訴えを退け、「大坂川内での輸送は大坂上荷船茶船が独占的な営業権を持っている」という判決を出しました。
 大坂上荷船茶船はこの判決を機に一層強硬姿勢をとるようになり、尼崎渡海船が大坂へ荷物を積んだ帰りに人や荷物を載せようとしても、番船を出して阻止するようになりました。尼崎渡海船はやむなく大坂からは空船で帰らざるを得なくなりました。当初静観していた尼崎藩も、宝永元年(1704)頃には尼崎渡海船の立場に立ち、大坂へ薪〔たきぎ〕を運ぶ神戸村・二茶屋〔ふたつちゃや〕村・脇浜村(現神戸市中央区)の木船を尼崎に強制入港させ、築地町で販売させました。このため、大坂はもとより京都・伏見の薪値段まで高騰〔こうとう〕し、各方面から歎願が出るようになりました。結局、宝永3年に元通り木船を大坂に直行させる代わりに、尼崎渡海船も大坂から荷物を尼崎に運べることになりました。
 従来は元禄10年と15年の判決を重視するあまり、大坂の川内での大坂上荷船茶船の独占権が強調されてきましたが、尼崎渡海船はむしろ一時期を除いて継続的に、大坂と尼崎を結ぶ物流を担っていたと考えるべきでしょう。
 享保19年(1734)には尼崎藩が大坂で買い付けた米を尼崎渡海船で領内に運ぼうとして、また紛争になりました。この紛争の結果、寛保2年(1742)、尼崎渡海船が大坂から物資を運ぶ際には運賃の一部と年に銀200匁〔もんめ〕を上荷船茶船仲間に払い、上荷船茶船が尼崎から米を運ぶ際には尼崎渡海船仲間に運賃の一部を払う協定が結ばれました。しかしこのことは、大坂川内への諸船の乗り入れを公認することにもなり、大坂上荷船茶船を圧迫し、衰退に拍車をかけていきます。天明2年(1782)には大坂上荷船茶船が運上銀〔うんじょうぎん〕増額に耐えられず、尼崎側が協力して、寛政10年(1798)には大坂から尼崎へ運ぶ米は10石以下とすることも決められました。


尼崎渡海船の図(『和漢船用集』より)
「西宮渡海船より小し、日々大坂に往来す」と記されています。

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尼崎から大坂にかけての図


尼崎から大坂にかけての図
(堺市博物館蔵「摂津国名所港津図(三津図)屏風」(部分))
 寛文7年(1667)に巡見使が通行した際に作られた「海頻舟行日記」という史料に、尼崎港は「川口浅し、百石以上の舟荷を積み出入ならず」と書かれていることからわかるように、小規模な舟の出入りしか出来ませんでした。しかしほぼ同じ頃の様子を描いたと言われるこの屏風では、尼崎から大坂にかけての海上にたくさんの舟が運航しています。図の下半分に描かれた町は、尼崎ではないかと推測されています。真偽のほどは検討の余地がありますが、多くの舟が海上を行き交っていたことは間違いありません。

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尼崎藩浦条目と水上交通政策

 浦方への尼崎藩の法令は、近世前期にはほかの法令と合わせて出されていましたが、貞享2年の藩主青山幸督〔よしまさ〕への代替わりに、漁民・船員・廻船業者などを対象に、体系的な浦条目〔うらじょうもく〕が発布されました。それは幕府の浦高札を基礎とし、兵庫津の保護のために神戸村・二茶屋村での大型廻船所持禁止や上荷船の増船禁止、他国船問屋の禁止などを定めました。また管轄は住吉川(現神戸市東灘区)を境に西を兵庫津奉行、東を尼崎藩船奉行が担当しました。この浦条目は尼崎藩の基本法令となり、元禄七年にもきわめて似た「浦辺村々法度〔はっと〕書」(後掲)が出されています。
 一方、元禄3年には、尼崎藩は兵庫津から大坂市中の各船積み所への運賃を定めています。米10石につき蔵屋敷の並ぶ土佐堀肥後橋までが8升、天満橋や東横堀川まで1斗1升などとなっていて、大坂市中の奥深くまで兵庫津から渡海船が行き来していることがわかります。
 また、蔵屋敷のある場所と並んで、諸船の発着場のあった北浜も、渡海船の有力な拠点となっていました。米のほか材木・薪・干鰯〔ほしか〕・人乗りは別に運賃が定められており、これらが主要な積み荷・顧客でした。
 大坂上荷船茶船が、大坂川内での就航について優先的な特権を持っていましたから、尼崎藩は川中での口論を禁止しつつも尼崎や兵庫津の渡海船を保護し、大坂と城下町を結ぶ輸送手段の確保に力を入れていきました。

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「尼崎藩浦条目」


「尼崎藩浦条目」(地域研究史料館蔵)
 江戸時代は、湖沼や海浜に面した村のうち、領主の海上輸送や朝鮮通信使、海難救助などに労働力を提供する村が決められており、この村だけに漁業権が認められていました。これを浦方〔うらかた〕と呼び、こうした労働力を浦役〔うらやく〕と言います。浦方には浦高札や浦条目など、一般の村とは異なる法令が出されました。

 この条文は、他国へ行く大勢の者を乗せ輸送する浦がある場合は、のちの大庄屋にあたる尼崎領郡右衛門の指図を受けること、また大坂・堺から乗り越して来るものがあれば、出身地の藩の蔵屋敷の蔵元や留守居〔るすい〕などから証明書を出してもらうよう指示しています。大勢の人の移動に神経を使っているのです。

居船頭并びに沖船頭・水主
 居船頭は自分では船に乗らない船所有者で、これに対し実際に乗船する船所有者を直乗船頭といいました。また沖船頭は船主に雇われて乗船する船頭、水主は船頭のもとで働く水夫です。違反すれば船の所有者や雇われ船頭、一般の水夫までが責任を問われました。

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尼組過書船

 海上交通と並んで重要だったのが河川交通です。天正18、19年(1590、91)のこと、尼崎組(過書船〔かしょぶね〕の組)の井上又太郎と次郎左衛門が、豊臣秀吉の小田原・北条氏攻めに協力した功により、大坂・中越組の中越甚右衛門らとともに、過書頭に任じられました。さらに慶長8年(1603)、尼崎から神崎川をさかのぼって枚方―淀―伏見・鳥羽間の淀川水系を行き来する過書船舟運の特権を、江戸幕府から得ました。大坂や伝法〔でんぽう〕・淀・伏見などの船持ちたちと仲間を作り、年銀200匁の運上銀を納め、武家のためには無賃で舟を出すかわりに営業が認められたのです。
 尼崎では辰巳町に船番所が設けられ、過書座役人が詰め、船数は貞享年間には株数151艘〔そう〕で130艘が稼働していました。尼組過書船の主力は、40石から130石積みまでの貨物船の尼天道〔あまてんと〕船で、京へ鮮魚を運ぶ手繰〔たぐり〕今井船もありました。
 元禄16年には、神戸村・二茶屋村の薪を積んだ過書船が、その荷を尼崎から大坂へ運ぼうとして、大坂上荷船茶船仲間に芦分橋で差し押さえられたために、過書船側が提訴しました。当時、大坂上荷船茶船仲間は尼崎渡海船仲間と紛争中で、尼崎渡海船の立場に立つ尼崎藩が、神戸村・二茶屋村・脇浜村の薪を築地町で売却したため、大坂などで薪が高騰していました。過書船はそれに目を付け大坂に運ぼうとしたのです。大坂三郷惣年寄〔そうどしより〕が仲裁に入り、過書船の薪荷物は半分を上荷船茶船に積み移し、半分は過書船で運ぶことを認めることで、宝永元年に和解しました。尼崎渡海船の項で見たように、この直前までは大坂上荷船茶船が勝訴することが多かったのですが、それは大坂上荷船茶船を保護することで、物資の大坂への安定供給を保つことを目的としていたのです。しかし大坂上荷船茶船の独占でかえって大坂への物資流入が減る結果を招いたため、尼崎渡海船に加え過書船にも大坂市中の川内を運航することを認めざるを得なくなりました。
 ただ、過書船は公用を無賃で務めなければならず、さらに船役所の徴収金増加が経営に重くのしかかっていました。仲間の競争が激化し、百姓所有の屎〔こえ〕船が横行して積み荷を奪われるなか、やがて過書船は次第に衰退していきました。


過書船の図(『和漢船用集』より)
 尼組過書船の規模は30石積み以上で、はじめは乗客40人を乗せるような船が主流でしたが、しだいに物資輸送に重点が移り、早くから物資輸送をしていた淀二十石船としばしば対立しました。


天道船の図(『和漢船用集』より)}
 18世紀前半の過書船総数877艘のうち17%の151艘を占め、天明7年(1787)には過書船総数740艘に対し141艘でしたが、慶応2年(1866)の稼働はわずか27艘でした。


手繰今井船の図(『和漢船用集』より)
 尼崎在住の今井道伴が造り出したという説や、堺の豪商・今井宗久と結びつける説があります。天道船よりも小型で速度が出ることから、鮮魚を運ぶ船として利用され、尼崎城下では天明8年に9艘、天保9年に12艘ありました。

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猪名川と武庫川の通船

 猪名川通船は、江戸時代前期の寛永12年(1635)から再三就航願いが出されますが、荷物が奪われる宿場や水利施設への悪影響を心配する周辺農村から反対があり、なかなか認められませんでした。ところが天明4年、伏見の船元締坪井喜六が伊丹・池田の酒荷物を迅速に運ぶことを目的に願書を出し、伊丹宿の荷物を奪わないこと、用水が必要なときは運航をやめることなどを条件に、伊丹の領主の近衛家に認められました。幕府もこれを追認し、猪名川舟運が始まりました。10石積みの高瀬船で下河原村(現伊丹市)から戸ノ内や神崎、尼崎、大坂などへ、酒、米、油、綿、煙草〔たばこ〕、炭、薪などを運びました。天明4年に通船を始めたときは100艘が認められましたが、実際に運航していたのはもっと少なかったと思われ、明治2年(1869)には「猪名川筋弐拾五艘組」と呼ばれ、猪名川・神崎川沿岸の村々に1株ずつ割り当てられていました。
 武庫川でも三田ー生瀬〔なまぜ〕(現西宮市)間を中心に何度も舟運の計画がありましたが、その都度宿場などが反対しました。たとえば、享保18年には大坂の金田屋太良兵衛と三州屋増太郎が、高瀬船で材木などを三田から生瀬まで運ぶ代わりに生瀬村に馬借助金を出す約定を取り交わしましたが、金田屋と三州屋の川船願いに対して、享保20年に生瀬・小浜〔こはま〕(現宝塚市)・昆陽〔こや〕(現伊丹市)の馬借が反対したため舟運は認められませんでした。伊丹の酒のように、舟運に適した物資が武庫川沿岸に少なかったのが理由です。生瀬より下流では、文化6年(1809)頃、大坂・浪速橋の名塩〔なじお〕屋常七が生瀬から小浜、髭〔ひげ〕(常松村)、西新田村、蓬〔よも〕川を経由して大坂と結ぶ運賃を定めた引札〔ひきふだ〕を作りましたが、運航実態はよくわかっていません。明治4年には大坂・堂島の虎屋新助ら4人が、生瀬村の源左衛門と高瀬舟による諸荷物取り扱い契約を結んでいます。しかし近世に定期的に運航されたのかどうか、どれほどの規模だったのかもわかっておらず、今後の研究課題です。
 なお、街道が川を渡る場所には渡し場があり、武庫川に髭の渡しと西新田の渡し、左門殿〔さもんど〕川に辰巳(尼崎辰巳町)の渡し、神崎川に神崎の渡しがありました。


伊丹の船番所と荷積所(伊丹資料叢書6『伊丹古絵図集成』掲載、天保15年「伊丹郷町分間絵図」より)
 伊丹郷町の高瀬船の船番所は現在のJR伊丹駅のすぐ北側付近、郷町から運正坂とよばれる坂を降りたところにありました。天保15年(1844)の「伊丹郷町分間絵図」(武田八郎氏文書、伊丹資料叢書6『伊丹古絵図集成』昭和57年に収録)によれば、猪名川の支流は高瀬川と呼ばれ、船番所のすぐ横に荷物揚場、造酒荷納家、造酒荷ノ蔵などが描かれています。

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百姓屎船

 百姓屎〔こえ〕船とは、大坂市中の屎尿〔しにょう〕を農村で肥料として使うために、仲介し運んだ船です。農村では屎尿を入手するため、生産した野菜類や縄・筵〔むしろ〕・糠〔ぬか〕・藁〔わら〕などの加工品と交換するようになりました。屎船を介してこれらの物資は大坂市中に持ち込まれ、過書船や大坂上荷船茶船などの積み荷を奪いました。特権を脅〔おびや〕かされる過書船・大坂上荷船茶船などは、再三訴えますが、都市衛生の維持のために屎船を必要とした大坂町奉行所は、屎船による物資輸送を認めました。

水上交通史を調べるために
 『尼崎市史』第2巻・第6巻のほかに、山下幸子「猪名川の高瀬舟通行」(『地域史研究』5−2、昭和50年10月)、日野照正『畿内河川交通史研究』(吉川弘文館、昭和61年)、松岡孝彰『生瀬の歴史』(昭和32年)、『西宮市史』第5巻、『伊丹市史』第2巻・第4巻、大国正美「近世前期の尼崎藩浦条目と幕府法」(『地域史研究』22−1、平成4年9月)、同「元禄期の兵庫ー大坂の海上輸送と尼崎藩」(同27−1、平成9年12月)、同「西摂海上積み荷争論と尼崎藩大坂留守居」(同27−3、平成10年3月)が参考になるでしょう。
 尼崎の水上交通史料としては、「諸川船要用留」(『大阪市史』第5巻)、大阪市史史料第34輯『船極印方・海部屋記録』(大阪市史編纂所、平成3年)などがあります。また髭の渡しについては、松岡孝彰「西国街道髭の渡し」(『地域史研究』3−1、昭和48年6月)、屎舟については「江戸前半期における武庫川尻村々の屎舟」(『地域史研究』15−1、昭和60年9月)などがあります。

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