近世編第2節/成長する西摂地域7/国訴(岩城卓二)

株仲間

 近世には、株仲間と呼ばれる同業・同職の共同組織が多数ありました。幕府・領主に冥加〔みょうが〕金を上納する代わりに、営業独占権を認められ、その職を営むには株仲間に入らなければなりませんでした。株仲間は、年寄・行司などの代表者を中心に運営されました。株数は決まっており、株所持者から株を購入するか、空きが出るまで待たねばなりません。現在の相撲界の親方株をイメージすると、わかりやすいと思います。職種によっては無株の営業者が後を絶ちませんでしたが、発覚するとたちまち株仲間から訴えられ、営業を差し止められました。
 幕府・領主は、流通や物価をコントロールするために株仲間を利用しました。とくに田沼時代の明和・安永年間(1764〜81)、大坂では次々と株仲間が公認されました。幕府は株仲間に営業独占権を与えることで、中央市場としての大坂の優位を確立しようとしたのです。しかし、株仲間の独占が物価騰貴〔とうき〕の主因であると考えるようになった幕府は、天保12年(1841)から翌年にかけて、株仲間など営業を独占する共同組織の解散を命じました。ところが、かえって流通は混乱し、物価騰貴が続いたため、嘉永4年(1851)ふたたび株仲間などが再興されます。


株仲間
 明治元年(1868)、大坂には220もの株仲間がありました。十人両替・銭両替・質屋・菜種絞油〔こうゆ〕屋・干鰯〔ほしか〕・綿屋・菱垣〔ひがき〕廻船問屋・木綿絞結〔こうけつ〕職等々、金融・商業・運送・製造業とあらゆる職種で株仲間が結成されていました。仲間の株数は数十〜数百と違いがありますが、大坂町奉行所に株仲間名前帳が提出され、株の売買・譲渡が管理されていました。17世紀に成立する株仲間もありますが、大坂では明和・安永期(1764〜81)に、商工業者の側からの願いによって株仲間の公認が一気にすすみました。
〔参考文献〕今井修平「近世都市における株仲間と町共同体」(『歴史学研究』560,昭和61年10月)

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嘉永7年の綿国訴

 明和9年(1772)、三所綿問屋・綿買次問屋・綿屋仲間という三つの綿取引に関わる株仲間が、大坂で公認されました。しかし、この株仲間の独占権は、綿の主要な生産地である摂津・河内村々には及ばず、百姓や村に基盤をおいて活動する在郷商人は自由に実綿〔みわた〕・繰綿〔くりわた〕を売買することができました(摂河村々での綿生産・取引については本節2参照)。ただし天王寺村・南平野町・北平野町など大坂市中地続きの村々の内、篠巻〔しのまき〕綿・小袖〔こそで〕綿・莚〔むしろ〕綿・縞木綿〔しまもめん〕・南京〔なんきん〕綿など細工綿に関わる者は、この株仲間に加入しなければなりませんでした。
 ところが嘉永7年、大坂の綿屋たちは株仲間再興に乗じて、摂河村々での綿流通も独占しようと企てたのです。
 これに対して摂津・河内の千を越える村々は町奉行所に訴願をし、綿屋の権限は天保の解散令以前と同じく市中と地続き村の細工綿の流通独占に限られること、摂河村々では百姓が生産した綿を近隣の商人などに売り、その綿商人が遠国・近国に直接販売することも自由であることを町奉行所に再確認させました。そのうえで村々は、今後も市中の綿屋たちがこうした企てを繰り返すかもしれないので、注意することを呼びかけています。また、村々で売買する綿のことに関わる町奉行所の触〔ふ〕れが通達されてきた場合は、内容を承諾する前に村々で相談することが確認されました。
 18世紀以降、摂河の村々は、広域的に村々が結集するこうした民衆運動をしばしば繰り広げました。摂河は尼崎藩領・高槻藩領などを除くと、幕府・旗本・寺社領等々が分散錯綜〔さくそう〕していました本編第1節2参照)。そうした所領の違いを越えて、村々が一致団結して訴願闘争を繰り広げ、綿・菜種といった商品生産物の高価格販売や肥料の低価格購入の実現に取り組んだのです。こうした民衆運動を国訴(読み方は「こくそ」または「くにそ」)と言います。大坂周辺では百姓一揆はあまり起きていませんが、近世後期には多くの国訴が闘われています。
 国訴は、百姓一揆のように参加する村すべての百姓が大坂町奉行所などに押しかけ、要求を訴えるわけではなく、代表となった村役人が訴訟をすすめる点が特徴です。大別すると、同じ所領の村役人が集まり、そのなかから代表が決められる場合と、さまざまな所領が分散錯綜する地域では郡単位に各村の村役人が集まり、そのなかから代表が選ばれる場合とがありました。こうした村役人は惣代〔そうだい〕庄屋・郡中惣代と呼ばれ、数百か村の国訴の場合、このなかからさらに代表が選出されることもありました。代表となった村役人は村々の代表として大坂町奉行所に自分たちの主張を訴え、その実現に尽力し、経費も村々で不公平がないように管理・分担しました。

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安政2年摂津・河内1,086か村国訴において惣代が出た摂津国の村/天保8年の郡中議定


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「国訴惣代頼み証文」


地域研究史料館蔵、村上一氏文書

 国訴は合法的な訴訟裁判闘争であり、大坂町奉行所への出訴、審理、諮問への返答、願い下げなどという煩雑な手続きが必要となりました。
 こうした訴願運動を続けるには、参加するすべての村の農民が、そのたびごとに集まって相談することなどできるはずもありません。村役人だけに限っても千か村にも及ぶ大規模な国訴の場合、一向にことがすすみません。そこで村々は、地域ごと、あるいは領主ごとに惣代=代表を選び、その惣代に訴願を任せました。その際、村役人と惣代の間では頼み証文という文書が交わされました。
 上の史料は、この頼み証文で、嘉永7年国訴のときのものと思われます。綿売買・菜種売買の制約、肥料値段の高騰は「難渋」であり、一同で出願すべきところであるが農作業に支障を来すので「其元殿村々惣代ニして相頼」むと、訴願の遂行は「頼惣代」に委任されています。また、この頼み証文は、案文と呼ばれる下書きのため、「何右衛門」と表記されています。
 国訴は、こうした惣代を生み出した運動でした。

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積み重ねられる国訴の経験

 「国訴」は歴史用語で、いつ頃から用いられるようになったのかについては、諸説があります。幕末維新期に「国訴」という用語が定着したというのが妥当だと考えられますが、ここでは国・郡単位に、村々が所領を越えて結集した広域的な訴願で、綿・菜種・肥料をめぐる問題で闘われたものを国訴と呼ぶことにします。
 さて国訴のうち早くから村々が結集して取り組んだのが、肥料問題です。摂津では享保末年(1730年代)から元文5年(1740)にかけて、下肥〔しもごえ〕・干鰯高騰〔ほしかこうとう〕に反対する訴願がいくつも起こります。そのうちよく知られているのは、寛保3年(1743)、摂河200か村余りが肥料価格の引き下げを町奉行所に求めたものです。
 この国訴では、村々の願い通り肥料価格の値下げを命じる町奉行所の触れが出され、村々の指摘に従い市中の干鰯商人が価格引き下げに努めることや、伊丹・池田・西宮・尼崎での油粕〔あぶらかす〕・焼酎粕買い占め禁止が申し渡されています。下肥・干鰯・油粕・焼酎粕等々さまざまな購入肥料が用いられていたことや、肥料商があちらこちらの在郷町〔ざいごうまち〕・城下町にいたことがわかります(下肥については本節4参照)。
 こうした肥料価格の引き下げを求める国訴は、宝暦3年(1753)・天明8年(1788)・天保6年(1835)など何回も闘われたことが知られています。こういった、国訴という民衆運動が成熟する契機となるのは、大坂市場の優位を確立しようと幕府が企てた田沼時代以降です。それを背景に市中だけでなく村々の綿・菜種流通も独占しようとする株仲間と、これを阻止しようとする百姓や在郷商人との対立が高まっていきました。
 とくに灯油の原料となる菜種は生活必需品であり、大坂灯油市場の動向は、江戸市場にも大きな影響を与えました。そのため幕府は18世紀に入るとその流通統制に乗り出し、明和3年(1766)、灯油価格の高騰を理由に、摂河村々では他人から菜種を買い取って絞油〔こうゆ〕業を営むことを全面禁止とし、自家消費以外の菜種は大坂で株仲間として公認された油問屋に出荷するように命じました。
 菜種は水油〔みずあぶら〕と呼ばれる灯油の原料として、摂河の村々で広く栽培されていました。百姓たちは秋に植えた菜種を収穫前に近隣の干鰯屋・絞油屋に売り、その代銀を春からの稲作・綿作の肥料購入資金や生活費に充てていました。そして秋に収穫する綿も衣料の原料として販売するだけでなく、種を取り出し、油の原料として近隣の絞油屋に販売していました。
 大坂周辺の農村では綿・菜種・肥料が密接に連関しながら農業経営が展開しており、このどこかの歯車が狂うと、たちまち経営は苦境に追い込まれます。そのため大坂への菜種出荷を義務付ける町奉行所の方針に対して、摂河の村々はすぐに国訴を開始しました。
 たとえば摂津国武庫郡では尼崎藩領28か村、幕府領6か村、大名飛び地・旗本など11家領21か村の計55か村が一致団結して、これまで通りの自由な菜種売買を求めています。このときの訴状には武庫郡すべての村の村役人が名を連ねており、郡中惣代・惣代庄屋が選ばれるような訴願にはなっていません。また、武庫郡内でもさまざまな考え方があったらしく、一部の村だけが参画する訴願も行なわれたようです。
 隣の川辺郡でも、郡内全村の意見統一をはかることはむずかしく、摂津国単位での意見集約をはかる動きもあったようですが結局断念し、川辺郡だけで訴願を行なった模様です。どうやら明和3年の菜種問題では、寛保3年の肥料のときのように、郡を越えた一国単位の訴願には至らなかったようです。
 結局、このときの菜種国訴では村々の願いは却下され、明和7年、摂河村々で油取引業を営む場合は株仲間に加入することが義務付けられました。

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尼崎藩領の動向

 明和3年国訴で興味深いのは、尼崎藩領の動向です。藩領村々は、触れに従うと大坂への出荷は輸送コストがかかり、百姓は菜種作から撤退し麦作中心にならざるを得ないこと、そのことによる菜種生産の減少はかえって大坂での灯油価格の高騰を招くこと、万一大坂が大火などに見舞われ絞油業が停止した場合、摂河農村での絞油業が衰退していると日本国中の灯油需要に支障が出ることなど、郡単位の訴状には記されていない実に具体的な問題点を列挙した訴状を作成し、尼崎藩に差し出しているのです。
 そして、この訴状に記される問題点について、みずからが町奉行所に訴えるのではなく、尼崎藩から町奉行所に申し出るよう歎願しています。つまり藩権力の力を使うことで村々の主張を幕府に認めさせる運動も、国訴と同時に行なっていたようなのです。
 実は寛保3年の肥料問題のときも、国訴とは別に、武庫郡・川辺郡の尼崎藩領村々だけの訴願も行なわれていたと思われます。他領の村々とともに国訴を闘いながら、同時に藩権力を動かし、その力を利用することで自分たちの主張が通るような運動も展開する。百姓たちは、みずからの主張を通すためにさまざまな手段を講じていたのです。

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文政6年の大国訴

 村々の主張は、認められることもあれば、却下されることもありました。しかし国訴を重ねることで、村々は大規模な訴願を実現する力量を獲得していきました。それが開花したのが、文政6年(1823)の国訴です。
 この国訴が画期的であったのは、はじめて参画する村数が千を越えたことであり、摂河の約70%の村々が参画したことになります。そして、明和9年に認められた三所実綿問屋を、廃止に追い込むという大きな成果を得ました。
 三所実綿問屋は、西日本諸国や畿内・近国から大坂に入る綿取引に関わる問屋でしたが、株仲間公認後、幕府に運上〔うんじょう〕銀を上納していることを振りかざし、摂河村々が他国へ綿を直接売れないようにいろいろと画策してきました。市中だけで認められた権限を拡大し、摂河村々の綿流通も掌中に収めようとしたのです。
 そこで摂河の村々は国訴に踏み切りました。最初、786か村から始まったこの国訴は、その後221か村が加わり、ついに1,007か村という大規模な運動となりました。その結果、幕府が公認した株仲間を廃止させるという、画期的な成果を獲得したのです。
 さらに村々は菜種に争点を移し、国訴を続けました。先述したように、多くの村の意見が一致するのは容易なことではありませんでしたが、国訴の経験を積み重ねることで、参画する村数が多くなければ幕府が耳を貸さないことを、村々は知るようになりました。そこで綿とともに菜種問題も取りあげることで、より多くの村が団結できるように争点を拡大し、千を越える村の参画を実現したのです。そしてこの菜種国訴には和泉の村々も参画し、最終的には実に1,400か村もの大国訴となりました。しかし灯油の原料となる菜種の流通は、幕府も強い関心を寄せていたため、明和以前のように村の絞油屋から直接に油を買い取りたいという村々の要求は、却下されています。
 菜種国訴は村々の敗北に終わりましたが、嘉永7年国訴でも文政大国訴の経験が受け継がれました。村々は、綿問題は文政国訴で決着済みであることを訴え、市中綿屋の要求を退けたのち、菜種国訴を闘いました。
 この菜種国訴も十分な成果を得ないま終結しましたが、みずから代表を選び、意見を集約するという国訴は、民衆運動のひとつの到達点でした。
〔参考文献〕  藪田貫『国訴と百姓一揆の研究』(校倉書房、平成4年)

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