近世編第3節/人々の暮らしと文化3コラム/生津村の医師(中村光夫)

ふたりの医師

 明治4年(1871)の旧生津〔なまづ〕村(現尼崎市武庫之荘西2丁目ほか)の絵図(地域研究史料館蔵、吉田久氏文書)に、「医師屋敷地」が描かれています。青色の水路に囲まれた村の集落(白色地)の東はずれに、位置していた様子がわかります。この屋敷で明治維新前後に開業していた医師に関する古文書2通(地域研究史料館蔵、福田弥平氏文書)が伝わっていて、1通は佐々木盛伊〔もりただ〕、もう1通は楠林淡斎〔くすばやしたんさい〕という人物に関するものでした。
 佐々木盛伊の「由緒書」は、生津村で開業の許可を得るために尼崎藩に提出した文書のひな形です。そこには、盛伊は尼崎藩領生津村の生まれ、何年か以前に尼崎藩の坂本玄瑞の門人となって医術の伝授を受けたので、このたび本道(漢方医の内科)・外科の医業を生津村で開業したい、と記されています。しかし、提出が明治3年、肩書きがすでに「生津村医師」とあるので、新体制下での再申請文書と思われます。盛伊は尼崎藩時代から開業していたのです。
 一方、楠林淡斎の文書には、備中国後月〔しつき〕郡の一橋家領高山市〔こうやまいち〕村(現在の岡山県西部、高梁〔たかはし〕市川上町高山市)の出身、はじめは一橋家に表医師として仕官したが、当主の徳川慶喜〔よしのぶ〕が将軍となったのにしたがい幕府に勤める医師となったと記しています。明治4年現在、淡斎42歳、妻の峰は32歳、長男盛於〔もりお〕8歳、娘亀野5歳、次男幸之進3歳です(いずれも数え年)。峰の実家は、生津村の近く、今北村のうち芋村の林家です。


生津村の医師屋敷
村の鎮守の北、番人屋敷地と妙見地の間に挟まれています。


佐々木盛伊の「由緒書ひな形」
宛名が明治新体制下での「社寺(係)」とあるので、「庚午」年は明治3年であろうと考えられます(いずれも紫枠内)。


「佐々木淡斎由緒書」
妻子4人の生年月日、誕生時間も記しています。


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記録と伝承

 この2通の古文書に記された人たちの関係が、淡斎のひ孫・仲野将人氏(静岡市在住)と伊丹市大鹿佐々木氏の縁者・辰巳信太郎氏から提供された記録と伝承によりあきらかになりました。
 淡斎は幕府の鉄砲組付医師として鳥羽伏見の戦に従軍したのですが、大敗北した自軍とはぐれたそうです。西国街道をようやく伊丹市域の大鹿村まで逃れてきたのをかくまったのだと、佐々木家では伝えています。戦闘は慶応4年(1868)正月3日のことでした。
 楠林家の伝承では、淡斎と佐々木盛伊は大坂の緒方洪庵の適塾で西洋医学をともに学んだ間柄で、大鹿村に定住した淡斎は盛伊と親交があったと言います。
 そうしたなか、明治4年6月4日、往診途中に雨宿りをしていた木に落雷があって、盛伊が亡くなるという事故が起きました。盛伊の子供たちはまだ幼かったので、淡斎が佐々木の姓を継いで未亡人と結婚、生津村の医師となったのだそうです。
 なお、後に盛於に家督を譲って楠林姓に戻った淡斎は大阪市中で開業、その没後の明治21年夫人の峰は盛於を経営者として浪花産婆学校を創立、西洋医学を導入して明治初期の大阪産婆界の発展に尽くしました。

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