近世編第3節/人々の暮らしと文化4コラム/暦・時刻・方位(岩城卓二)





「天保十二辛丑暦」(1841) 29p×152p
地域研究史料館蔵、岸岡茂氏文書

1年は何日?

 江戸時代の1年は何日でしょう。
 太陽暦を使う現在は、平年は365日、4年に1回の閏〔うるう〕年は366日です。また、1月は31日、4月は30日と各月の日数は決まっており、2月だけが平年は28日、閏年は29日となります。
 これに対して太陰太陽暦(太陰暦と太陽暦を折衷した暦)を用いる江戸時代は、大の月が30日、小の月が29日で、1年に大の月が6〜7回、小の月が5〜6回あり、また大の月は何月と決まっていたわけではありません。つまり平年は354〜355日となりました。しかし、これだと太陽の動きとズレができ、このままではそのうち暑い正月がやって来てしまいます。そこで19年に7回、閏年を設けて調整しました。
 天保12年(1841)は閏年でした。暦をみると「正月 小」に続いて、「閏正月 大」となっています。つまり29日の正月が終わると、30日の閏正月がはじまり、その後は2月、3月と続き、同年は13か月の1年ということになります。また大の月は閏正月・3月・6月・8月・10月・11月の6回180日、小の月は7回203日の計383日の1年でした。
 閏月は閏正月と決まっていたわけでもありません。閏4月もあれば、閏12月のこともあり、江戸開幕の慶長8年(1603)から、太陽暦に移行する明治5年(1872)までの間に、96回も閏月がありました。
 天保12年の前の閏年は天保9年で閏4月、次は同14年で閏9月でした。
 現在の太陽暦が採用されるのは明治5年で、同年12月3日が明治6年1月1日とされました。立春・立秋・大暑・大寒などが、現在の季節感とずれているのは、明治5年が1か月程早く終わったからです。



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天保12年は「辛丑」の年

 冒頭に掲載した暦の表紙をみると、「天保一二年辛丑〔かのとうし〕暦」と記されています。これは江戸時代、十干と十二支を組み合わせた干支〔えと〕で暦年や日を表記したからです。干支は60年で一巡するので、60歳を還暦と言うのはこのためです。また、壬申〔じんしん〕の乱、戊辰〔ぼしん〕戦争と歴史的事件に干支が使われていることもあります。甲子園球場は、大正13年(1924)「甲子」の年に完成したことに由来します。
 江戸時代の文書では和暦年号を省略し、十二支だけで表記されていることも少なくありませんが、同じ干支は60年に1回ですからおおよその年代が推測できます。また、閏月も年代比定に役立ちます。市販の年表類には、干支・閏年・閏月が記載されていることが多いので、年号がなくても干支・閏月が記載されている場合は、おおよその年代の見当がつけられます。

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時刻と方位

 時刻にも十二支が使われました。真夜中が子の刻、真昼が午の刻となります。子の刻が「九つ」で1刻(2時間)ごとに「八つ」、「七つ」と数え、「四つ」までいくと、午の刻を「九つ」として同じように数えていきました。「おやつ」の語源もこれに由来します。ただし、江戸時代は不定時法を用いており、夜明けから日暮れまでと、夜間をそれぞれ6等分しました。つまり日の出・日の入りで時刻が決められているわけで、夏至の頃の昼間1刻は約2.6時間、冬至の頃だと約1.8時間でした。このため江戸時代の和時計は、昼と夜とで針の動きが調整できました。また、江戸の町では、人々は時の鐘で時刻を知りましたが、尼崎城下ではどのようになっていたのかはわかっていません。
 方位は東西南北と、その中間を示す艮〔うしとら〕・巽〔たつみ〕・坤〔ひつじさる〕・乾〔いぬい〕が一般的に用いられました。艮・巽・坤・乾は易〔えき〕の八卦〔はっけ〕にもとづくもので、艮は鬼門とされ、都市や城・家屋の設計では注意されました。また暦にはその年の徳神である歳徳神の居る恵方〔えほう〕が記載されています。

〔参考文献〕
『地図・グラフ・図解でみる一目でわかる江戸時代』(小学館、平成16年)、『古文書参考図録』(柏書房、昭和54年)などに、時刻について詳しく解説されています。図版はこれらを参考にしました。さらに、詳しく知りたい方は、浦井祥子『江戸の時刻と時の鐘』(岩田書店、平成14年)をご参照ください。


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