近世編第3節/人々の暮らしと文化5/奉公人として働くこと(岩城卓二)




奉公に出された子供たち

 文政9年(1826)2月、摂津国西昆陽〔にしこや〕村(武庫地区)にひとりの少年がやってきました。名は永蔵。年は14歳。播磨国黒谷村(現兵庫県加東市)の生まれである彼が、はるばる西昆陽村にやって来たのは、同村の五兵衛家に奉公するためでした。年貢が納められなかった父儀重郎は、まだ14歳の息子を奉公に出し、その給銀を前借りするしか年貢を納める術〔すべ〕を持たなかったのです。奉公は8年間。その間の給銀は250匁〔もんめ〕でしたが、父親が半分以上の150匁も前借りしてしまいました。
 永蔵のように10代半ばで奉公に出されることは、当時、決して珍しいことではありませんでした。

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年季奉公人の時代

 近世以前の社会では人身売買が行なわれ、一生を奉公人として終えることも少なくありませんでした。しかし近世に入ると人身売買は禁止され、期間が限られた奉公が主流となりました。農村の奉公人には大別すると日雇〔ひやと〕い、一年季〔ねんき〕、長年季がありました。2年以上奉公するのが長年季で、ふつう7年から10年間奉公しました。
 この奉公にあたって雇用主との間で交わされるのが、下に紹介しているような年季奉公人請負証文です。奉公期間・給銀といった契約内容や宗門が記載されています。永蔵の家は黒谷村の真言宗掎鹿寺の檀家で、奉公にあたっては掎鹿寺が檀家であることを証明した寺請〔てらうけ〕状も添付されたことがわかります。
 また幕府・領主の法を必ず守ることも誓約されています。これは奉公人が不始末や事件を起こすと、雇用主である五兵衛の責任が問われたからです。そのため年季奉公では身元を保証する請人〔うけにん〕を必要としました。
 永蔵の請人となったのは、西昆陽村の儀兵衛です。儀兵衛は永蔵の家のことは先祖代々よく知っており、間違いないと保証しています。雇用する五兵衛にとってもっとも困るのは、永蔵が途中で逃げ出してしまうことでした。儀兵衛は、たとえ逃げ出しても捜索費用でご迷惑をおかけすることはありませんし、代人を用意しますと、五兵衛に約束しています。


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仕事と出身地

 五兵衛家は、この頃30石以上の土地を村に所持する村内有数の地主でした(五兵衛家の姓は氏田〔うじた〕。氏田家については、本編第2節2参照)。小作地は次第に増えていきますが、幕末期まで自作地の方が多く、おもに表作で米・綿、裏作で菜種・麦を生産していました。永蔵が奉公に来た頃、五兵衛家は妻・幼児2人・父母・妹2人の8人家族で、他に長年季奉公人が男女合わせて4〜6人いました。永蔵のような子供もいれば、20歳を越えた大人もいます。
 この奉公人が五兵衛家の農業経営を支え、男性はおもに農業労働、女性は収穫した綿を織る仕事をしました。西摂〔せいせつ〕(摂津国西部)には、五兵衛家のような広い自作地を持つ農家が多かったため、多くの奉公人が雇われていました。
 播磨国から奉公にやって来た永蔵と同様に、丹波・但馬といった地からも多くの奉公人が来ていました。丹波は西摂で盛んであった酒造業に、同地出身者が杜氏〔とうじ〕として関わっていたことが縁で、農村奉公人が来るようになったものと思われます。また播磨は明和6年(1769)に尼崎藩が同地に所領を得、交流が盛んになったからでしょう。
 しかし、こうした遠隔地からの奉公人は次第に減り、近隣の村からの奉公人が増えていきました。永蔵が奉公に来た文政年間は、ちょうどその転換期で、五兵衛家の奉公人も摂津出身者の方が多くなっていきました。

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給 銀

 この頃、銀60匁で米1石を買うことができましたが、永蔵の8年間の給銀では4石にしかなりません。1年間に大人1人で米1石が食料として必要だとすると、わずか4人分ということになります。それでも奉公人の給銀は永蔵の頃がもっとも良く、次第に下落し、幕末にふたたび上昇しています。
 永蔵の給銀のうち150匁は、父が契約時に受け取っています。通常は給銀の5〜9割を前給銀として親などが受け取りました。請人が必要なのは、多額の前給銀が支払われているからです。
 給銀は年齢、出身地などによって異なり、年季期間が長い程1年間の平均給銀は低くなるのが通例でした。この頃、五兵衛家の長年季奉公人の給銀は、男性は年66匁程、女性はこの半分程度しかありませんでした。一方、一年季の給銀は長年季よりもかなり高額で、1年で永蔵の8年分と同じくらいの給銀を得ることができました。これは、多くの場合一年季が成人との間で交わされる契約で、多くの者が長年季奉公の経験を積み、1人前の農業労働力とみなされたからです。
 五兵衛家では一年季奉公人を1〜2人程度雇用していたようです。日雇いは1年間に20〜60人も雇われ、さらに高給でしたが、子供は一年季や日雇いでは雇ってもらえませんでした。

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西昆陽村での生活

 永蔵は14歳から22歳という子供から大人への成長期を親元から離れ、奉公人として西昆陽村五兵衛家で生活しました。まだ1人前の農業労働力とみなされない永蔵は家事や雑用を任されることが多く、毎日懸命に働きながら、さまざまな農業労働を覚えていったことでしょう。
 そのほんのつかの間、永蔵は西宮戎〔えびす〕や中山寺(現宝塚市)に参詣することを許されています。また、18歳のときには親元に帰り、伊勢参りにも出かけています。奉公の半分を無事勤めた御褒美〔ほうび〕でしょうか。さらに手習いもし、勉学にも励んだようです。
 しかしこれらの費用は給銀から差し引かれました。すでに父親が150匁受け取っているので残りは100匁。永蔵は衣類をはじめ生活必需品もしばしば購入していたようで、その支払いが「諸払い」「盆払い」として引かれています。少額ですが、父親がまた借銀をしています。こうして8年間の間に次々と引かれ、年季が明けたときには40匁以上も五兵衛家から借銀していました。そのため永蔵は五兵衛家を去るときに、衣類・寝具を置いて帰ることになりました。
 このあとの永蔵の消息はわかりませんが、なおも借銀をかかえた彼は、再び奉公に出ざるを得なかったことでしょう。しかし、長年季の経験を積んだ永蔵は、今度は1人前の労働力として高給が得られる一年季・日雇いとして雇用されることもできました。
 永蔵のように成長期に奉公に出され、その給銀で残された家族が生計をたてる。この繰り返しで、多くの百姓の家は成り立っていたのです。


奉公人給銀の引き下げを定めた文書(地域研究史料館蔵、氏田一郎氏文書)


 上の写真は、米価下落を理由に奉公人給銀の引き下げが決められた文書です。西昆陽村が属する尼崎藩上瓦林組村々が定めたものと思われます。男奉公人二割半、女奉公人二割の引き下げと、主人から奉公人に季節に応じて与えられる着物=仕着せの染代は銀八分から一匁の範囲内にすることとなっています。
 奉公人の給銀抑制は雇用層に共通する課題で、武庫郡、川辺郡など郡単位でも取り決められました。
 こうした奉公人給銀抑制に関わる文書は、地域研究史料館蔵の文書群に散見されます。

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逃げた奉公人

 文政10年4月、西昆陽村五兵衛は、逃げた奉公人を大坂町奉行所に訴えました。
 五兵衛によると、彼は播磨国多可郡の松次郎を昨年12月から給銀230匁、一年季で雇いました。2月になって親が病気ということなので3日の休暇を与えたところ、そのまま帰ってきません。戻ってくるように催促すると、松次郎も病気だという返事です。五兵衛家では奉公人の雇用を抑えているので、労働力が不足して困ってしまいます。松次郎は快気次第、戻るというので日雇いでやり繰りしますが、繁忙期には日雇いを雇用しようにも人手不足で困りはてます。そこで何度も催促するが埒〔らち〕が明かないので、町奉行所の御威光でなんとかしてほしいというのです。町奉行所に訴えたのは、松次郎が他領民なので尼崎藩では裁けないからです。
 実は松次郎、4月初旬に川辺郡野間村で目撃されていました。西昆陽村の近村です。そこで仮病と疑った五兵衛は請人にことの次第を話し、松次郎の実家がある村の村役人に解決を依頼しました。しかしどうにもならず、ついに町奉行所に訴えたのです。
 こういうときのために請人がいるのですが、請人がすぐに代人を用意してくれるわけではなく、結局は雇用者が自力で解決を迫られることも少なくなかったようです。


奉公人の葬儀に関する証文(地域研究史料館蔵、白井栄氏文書)


 上の文書は、延享2年(1745)、丹波国氷上郡から山田新田村(現伊丹市)に奉公に来ていた娘「あき」が亡くなった際、同じく摂津国のどこかに奉公に来ていたと思われる妹「なつ」が、奉公先が姉の葬送を取り仕切ってくれたことへの感謝と同意を示した証文です。国元の親があれこれ言って来ても、ご迷惑はおかけしませんと書かれています。
 指先まで14cmしかない、小さな手の手形が押されています。


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