近世編第4節/幕末動乱期の尼崎3コラム/激動の慶応2年(岩城卓二)




連鎖する打ちこわし

 慶応2年(1866)5月3日(または4日)、西宮で米屋が打ちこわされました。
 開港後、諸物価は上昇を続けます。この年の5月になると、米価が異常に高騰〔こうとう〕し始めました。これは第二次征長のため進駐してきた幕府軍が兵糧米〔ひょうろうまい〕の確保に走ったからだと思われます。物価高騰は庶民の生活を直撃しました。とくにその日暮らしの貧民たちにとって、米の高騰は生死に関わる問題でした。庶民は不満を募〔つの〕らせ、日増しに不穏〔ふおん〕な空気が漂〔ただよ〕い始めていました。
 その不満に最初に火がついたのが西宮でした。交通の要衝〔ようしょう〕西宮には、日雇い稼ぎで生計を立てる人々が多く、米価高騰に苦しんでいました。最初は女房たちが米の安売りを求めて歩き回っていましたが、やがてそれが大きな集団へと膨〔ふく〕れあがり、ついに3日、米屋を打ちこわしたと言います。
 その2日後、今度は兵庫で打ちこわしが起こりました。上の史料にはそのことが記録されています。米の高値に苦しむ難渋人〔なんじゅうにん〕が「こぼち」=打ちこわしを始め、兵庫を代表する豪商北風家をはじめ多くの大家が被害にあったことがわかります。役人の制止など振り切り、打ちこわしは灘目〔なだめ〕にも広がったようです。
 やがて打ちこわしは、北摂の在郷町〔ざいごうまち〕池田にも飛び火し、14日には大坂でも打ちこわしが始まりました。大坂市中で働く日雇い人が多く生活する難波〔なんば〕・木津・勝間など周辺農村から始まった打ちこわしは、市中にも広がり、鎮静化させるために幕府や富裕層による施行〔せぎょう〕が行なわれたことがわかります。
 開港や幕府軍進駐による諸物価高騰によって、大坂周辺地域は混乱の度を深めていきました。

戻る

尼崎藩の政治的判断

 同年に尼崎城下で打ちこわしが起きたかどうかはわかりません。しかし藩の中枢部は、次々とむずかしい政治的判断を求められていました。打ちこわしの1か月前、会津藩より兵庫開港についての意見を求められたとき、藩政を動かす服部清三郎は、藩主忠興〔ただおき〕が「弱年不才」を理由に答えをはぐらかすことが賢明だという判断を下しています。これは下手に開港問題で態度を表明すれば、事態の推移次第では立場が悪くなると考えたからです。同じような理由から、前年9月に藩主が老中に推挙されるという噂〔うわさ〕を耳にした服部は、いま幕政に関与することは「危〔あやう〕キ御事」と、固辞するよう指示しています。服部は、政治的判断を誤った老中たちが失脚していく現状を冷静に見つめ、突出した政治的行動をとるべきではないと判断していたものと思われます。
 そのためには正確な情報が不可欠で、儒者としての名望などさまざまな人脈を用いて情報収集に努めました。慶応2年7月、第二次征長での幕府軍の敗報が次々と飛び込むなか、将軍家茂〔いえもち〕が死去しましたが、公表前にその報も知り、次期将軍候補である一橋慶喜〔よしのぶ〕の人柄を「英才」と認識し、情報網を駆使しながら事態の推移を見守っています。しかし、打倒長州だけは一貫していました。それは幕府方の連勝の最中ならいざしらず、敗軍のまま休戦すれば「天下ハ今日迄〔まで〕」と考えていたからです。結局、幕府は休戦を決断し、その一年余り後、大政奉還〔たいせいほうかん〕となりました。服部の予想は正しかったのかもしれません。

〔参考文献〕
藪田貫「大坂、騒擾二話(上)(下)」(『大塩研究』7・8、昭和54年3・10月)
辻野恵美「幕末維新期における畿内・近国譜代藩の動向」(『地域史研究』32−2、平成15年3月)

戻る