近世編第1節/幕藩体制の成立と尼崎5/近世の村(岩城卓二)




村の開発

 現尼崎市域は、猪名川と武庫川が氾濫〔はんらん〕を繰り返し、たびたび流路を変えたため、安定した生活を営むには困難な場所でした。
 しかし中世になると在地諸勢力によって積極的に開発され、荘園が成立していきました。開発は自然地理的条件や歴史的環境に規定されすすめられました。現尼崎市域では、神崎川と猪名川の合流点から河口、東大寺領猪名荘〔いなのしょう〕の海岸部に位置する長洲〔ながす〕浜、猪名野とその周辺、という三つの地域で大きく進展したと考えられています(中世編第1節「この節を理解するために」参照)。
 畿内周辺では鎌倉時代後期から室町時代にかけて荘園や郷のなかに、近世の集落につながる村が成立すると言われています。近世村の立地条件から推測すると、猪名川・武庫川氾濫時にできた自然堤防上や微高地に集落が形成され、その周辺に田畑が開発されたと考えられます。また農業に欠かせない水路は、かつて河川が氾濫したときの流路に沿って設けられている場合があります。人々が自然環境を熟知したうえで、開発していったことがわかります。また中世の村は惣村〔そうそん〕と呼ばれる自治的な共同組織を形成し、とくに戦国期になると、村民の生命と財産を守るために武装しました。
 近世にはこうした歴史をもつ村が支配の単位とされました。そのために行なわれたのが検地です。

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統一政権の検地

 織田信長・豊臣秀吉の統一政権は、支配下に置いた地域で検地を行ないました。検地とは文字通り、村ごとに「土地を検〔あらた〕め、測量する」ことです。
 6尺3寸四方を1歩、300歩を1反とし、検地帳に村内の土地一筆〔いっぴつ〕ごとに、所在地・面積・生産高・耕作者が登録されました。当時、耕作者から生産高の一部を搾取〔さくしゅ〕できる名主職〔みょうしゅしき〕・加地子職〔かじししき〕などの権利が存在し、これが秀吉政権に抵抗する土豪・地侍などの勢力を支えていましたが、太閤検地によって直接耕作者にだけ保有権が認められるようになりました。一つの土地に一領主・一作人という原則が確立したことは大きな変化で、土豪・地侍などは大打撃を受けました。
 検地によって零細な土地を耕作していた農民たちの土地保有権が公認され、検地帳に登録された農民が百姓身分として、年貢・夫役の負担義務を負いました。大名や領主たちには検地で決定された石高〔こくだか〕にもとづいて領地が与えられ、軍役賦課〔ぐんやくふか〕の基準になりました。
 天正8年(1580)、畿内を掌中に収めた織田信長が、摂津国内で検地を実施したと言われていますが、そのことを証明する確実な史料は発見されていません。市域で統一政権による検地が確認できる最初は文禄3年(1594)の太閤検地で、川辺郡では椎堂〔しどう〕・富田〔とうだ〕・猪名寺・善法寺・万多羅寺〔まんだらじ〕・岡院〔ごいん〕・上坂部〔かみさかべ〕・潮江・額田〔ぬかた〕・梶ヶ島・西難波〔なにわ〕・別所・尾浜村、武庫郡では浜田・東新田・守部〔もりべ〕・常吉〔つねよし〕・友行村で検地が行なわれたことが知られており、広範囲にわたって検地がいっせいに行なわれたことは間違いありません。
 この太閤検地帳が残る川辺郡額田村と椎堂村の場合、持高10石以上はわずかで、大半が5石以下の所有者で占められています。太閤検地が掌握した村では、一握りの有力者と、土地の所持権は獲得したものの、零細な農業経営を行なう者とに二分されていたのです。
 検地は、争いごとの原因となることが多かった村の境界を確定しましたが、その結果、他村の者による土地所持が多くなった村もありました。額田村や椎堂村はその一例で、村の土地の多くを他村の者が所持していたことがわかります。
 また、村の土地がバラバラになるということもありました。たとえば武庫郡時友村の場合、後掲の図のように村の土地は点在しています。同じく中世には野間荘の一部であった友行村や周辺の常松〔つねまつ〕・常吉村などと比べると、特徴的な村の領域であることがわかります。統一政権の検地は、日本全国同じやり方で行なわれたのではなく、中世までの地域の実情を考慮しながらすすめられたと言えるでしょう。

文禄3年(1954)「友行村検地帳」(地域研究史料館蔵、友行部落有文書)

 検地は村の土地一筆ごとに石高〔こくだか〕と所持者を定めました。太閤検地では6尺3寸(約191p)四方を1歩とし、30歩=1畝、10畝=1反、10反=1町となります。田畑は上、中、下という等級に分けられ、等級ごとに決められた石盛〔こくもり〕=斗代〔とだい〕(1反当たりの年標準収穫量)に応じて、石高が決定されました。たとえば石盛1石5斗の上田5畝の石高は、7斗5升となります。当地の太閤検地では、上田1石5斗、中田1石3斗、下田1石1斗、上畠1石2斗、中畠1石、下畠8斗の石盛だったようです。
 上の写真は、武庫郡友行村の文禄太閤検地帳です。この検地帳を例にとれば、帳面には字名「下なかいち」、田畑種別・等級「上畠」、面積「参畝拾歩」、土地の石高「三斗三升三合」、所持者「与三衛門」が記載されました。
 太閤検地は戦後近世史研究の主要なテーマであり、多くの研究があります。

文禄3年額田村・椎堂村の持高分布
 
額田村
椎堂村
村内
村外
村内
村外
30石以上
1
25〃
1
20〃
15〃
10〃
2
4
5〃
3
1
11
3
4〃
2
1
1
4
3〃
1
1
2
6
2〃
3
3
2
7
1〃
10
11
3
27
1石未満
12
23
15
23
合  計
33
40
40
70

『尼崎市史』第2巻、表1・2(34〜35頁)により作成。椎堂村村内の1石未満には寺、村外1石未満には惣作が各1含まれる。

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武庫郡友行村の田畑

 慶長10年(1605)の摂津国絵図によると、市域(約50ku)には約60の近世村落があったことがわかります(その後、分村したり、海岸部に開発された村が加わり、19世紀には約70となりました)。このなかから武庫郡友行村を例に、近世の村の具体的な様子を見ていくことにしましょう。
 慶長の摂津国絵図によると、友行村は295石2斗の村高でした。これが文禄の太閤検地で決定した石高だと思われます。
 同村は、大坂の陣後の元和3年(1617)に旗本長谷川氏の所領となり、寛永9年(1632)2人の息子に分知され相給〔あいきゅう〕村となります。ところが、正保3年(1646)に一方が絶家し、幕府領となったため、同村は長谷川氏領と幕府領の相給となりました。
 延宝5年(1677)、村の実情にあった年貢を賦課するため、近畿地方の幕府領で検地が行なわれました。友行村では太閤検地以来、80年ぶりの検地でした。ところが当時、村の一部だけが幕府領だったため長谷川氏領169石9斗9升2合は太閤検地の石高のままで、幕府領だけが125石2斗8合から130石8斗7升となりました。その結果、村高も300石8斗6升2合となりました。
 後掲の図には、延宝検地後の友行村田畑の等級を色分けして示しました。さまざまな形をした田畑が広がり、すべての田畑に水が行き渡るよう用水路が張り巡らされていることがわかります。田地が多く、村の中心部は上田・中田が占めますが、南北に走る芝場林の西側は耕作に適さない土地が多かったようで下田・下々田が多く見られます。これらの田畑を耕作するには水が必要です。友行村は武庫川に設けられた野間樋〔ひ〕から取水する水利組合に属していました。また、58か村で共同管理する長尾山(宝塚市・川西市)から肥料となる下草を確保していたようです。

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友行村図


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屋敷地

 近世の村を知るには「村明細帳」が便利です。元禄11年(1698)の村明細帳から友行村の姿を見ていきましょう。残念ながら幕府領130石分についてしかわかりませんが、同年には年貢・諸役を負担する本百姓が15軒、水呑〔みずのみ〕百姓が6軒住んでいるので、村全体では40〜50軒が暮らしていたと思われます。また、幕府領では牛4頭・馬1頭が飼われています。おもに農耕に用いる牛馬は高価で、家に1頭というわけではありませんでした。
 前掲の図によると、屋敷地は村の東側に集まり、用水路を隔てて野間村の屋敷地と接していました。関東・東北では屋敷地が分散することが多いのですが、近畿地方では屋敷地が集まっている村が一般的でした。
 時代は下りますが、文化8年(1811)時点の友行村のある1軒の屋敷を例にとると、18歩の屋敷地(石高7升)に、梁行〔はりゆき〕3間半・桁行〔けたゆき〕6間半の瓦葺きの居宅、梁行2間・桁行2間の瓦葺き2階建土蔵、梁行8尺・桁行1間半の瓦葺き納屋、梁行2間・桁行1間半の瓦葺き納屋(湯殿〔ゆどの〕・雪隠〔せっちん〕あり)、梁行7尺・桁行3間2尺の瓦葺き納屋、梁行1間・桁行1間半の瓦葺き納屋が建てられていました。居宅には座敷が設けられていますし、戸31枚・障子〔しょうじ〕18枚・襖〔ふすま〕11枚・畳42畳、庭には植木・竹・石が置かれていました。これは豪勢な屋敷の例ですが、友行村では瓦葺きの建物が多かったようで、土蔵や納屋の数、居宅内の造りに違いはあるものの、同規模の居宅が他にも確認できます。

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氏神と寺院

 村の鎮守である氏神は大切な場所でした。友行村には東西44間・南北60間の境内をもつ「牛頭天皇社〔ごずてんのうしゃ〕」がありました。南側に高1丈4尺の石鳥居が設けられ、境内には柿葺〔こけらぶ〕きの社、瓦葺きの拝殿のほか、八王社、弁才天社、薬師堂が建ち並んでいました。この氏神は時友村の氏神でもあり、「氏子中」が組織され共同管理していました。社の修復などは両村相談のうえで行なわれ、費用も分割しましたが、氏神に関わる諸事は、村役人とは別に置かれた氏子惣代を中心にすすめられました。
 境内の北側には、常法寺という寺がありました。神仏分離以前、神社にはこういった神宮寺が建立され、仏事を行なう社僧が住していることがあり、常法寺の場合もそうでした。真言宗でしたが、本寺はなく、元禄2年当時は空全という僧侶が住していました。無住になることもあったようで、元文4年(1739)にはある旗本家の大坂蔵屋敷役人の子息を僧侶とすることを、村が領主に願い出ています。この人物は友行村観音寺僧侶の弟子で、身元確かな真言宗僧侶であることが理由としてあげられています。
 神宮寺とは別に、村には高野山大楽院末寺の真言宗寺院である観音寺がありました。31間・11間の境内に、藁葺きの寺、瓦葺きの観音堂、白山権現社、土蔵、長屋が建てられていました。近世の村では、すべての人が檀那〔だんな〕寺を持たなければならず、友行村観音寺のように村内寺院の場合もあれば、近隣村の寺院を檀那寺とすることも少なくありません。
 その他、屋敷地の南側に地蔵堂がありましたが、この地蔵堂と、氏神と寺院の境内は年貢・諸役が賦課されない「除地〔じょち〕」でした。

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諸施設

 往来道筋9か所には、石橋が架けられていました。農道には板橋が架けられていたと思われます。屋敷地の西側、村内の道が集まる場所には高札場がありました。ふつう幕府や領主の法令は文書で通達されましたが、特に重要な法令は板に記され、人々の目につく場所に掲げられました。高札場は村の重要な施設で、独立する村の証でもあり、維持管理には細心の注意が払われました。元禄11年には、キリシタン禁令と火付けに関する高札が掲げられていました。
 このほか、年貢を入れておく郷蔵がありました。また、庚申〔こうしん〕塚や道祖神〔どうそじん〕塚などもあり、氏神や寺院と同じく「除地」でした。

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村の掟

 このように近世の村は、支配の単位であり、また生産・生活の単位でした。この村に居住する者の多くが百姓身分であり、村政を司〔つかさど〕る村役人が置かれ、村民が守るべき掟〔おきて〕も定められました。寛保2年(1742)の村掟を紹介してみることとしましょう。
 この村掟は5か条からなり、まず1条目では公儀御法度を守ることが制約されます。2条目では博打〔ばくち〕をはじめ人を集めて賭け事はしないことが記されます。博打は御法度で、当人だけでなく、見逃した村民も処罰されました。近世社会においては、村の誰かが犯罪を犯すと村に大変な迷惑をかけることになったので、こうした取り決めが結ばれていました。3条目では、作物や草木を盗み取ることを禁止します。作物荒らしや、こっそりと草木を盗むことはしばしば見られたようで、多くの村の村掟で禁止されています。4条目は、村の運営に関わることで、村寄合には必ず出席することや、納得できないことは遠慮なく申し出ることが決められています。そして、決定した後に、とやかく言うことは厳禁されています。最後の5条目は、他人や奉公人からの預かり物に関する取り決めです。
 この村掟は百姓が押印し、村役人に提出した後、村役人がその後ろに連印し、「惣百姓〔そうびゃくしょう〕中」に取り決めを守ることを誓約するという形式になっています。近世の村は、村役人を中心に集団的に運営されていました。
 全国にこうした村が約6万ありましたが、商業中心の村もあれば、山村・漁村もあり、そのあり方はさまざまでした。

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