近世編第2節/成長する西摂地域4/排泄物の再利用(荒武賢一朗)

下屎・小便肥料の利用

 農業を営むうえで欠かせないもの、それは肥料です。江戸時代には干鰯〔ほしか〕に代表される魚肥、醸造などによって発生する粕〔かす〕類(醤油粕・焼酎粕など)、草山で得られる干し草、塵芥〔ごもく〕、そして我々人間の排泄〔はいせつ〕物(屎尿〔しにょう〕)が挙げられます。とくに魚肥は、全国のなかでもっとも高い生産力を持っていた畿内先進地域の農業を支える原動力になったと言われています。しかし、農作物を生産するには魚肥だけではなく、その作物の発育や田畑の土壌に合うさまざま肥料が必要です。摂津国の平野部では干し草を得るための草山がほとんどないため、都市部で発生する屎尿を田畑の肥料として多く用いました。

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都市の下屎・小便の汲み取り

 現尼崎市域の農村地帯では隣接する尼崎城下のほか、大坂、伊丹などの都市に屎尿の汲み取りに出かけました。とくに三都と呼ばれた巨大都市大坂との取引関係は緊密なものでした。大坂の場合、「屎尿」と呼ばれるようになるのは明治時代以降であり、江戸時代には「下屎〔しもごえ〕(注1)(大便)」「小便」というように区分けがなされており、それぞれ取引の方法も独自に作られていました。尼崎市域の村々は下屎の取引を行ない、田畑への施肥を行なっていました。
 大坂町人の屎尿が周辺の農村に肥料として活用されるようになるのは、大坂の陣直後のことであると言われています。当初は、各村から野菜などを舟に積んで大坂へ出向き、そこで町家にある屎尿と交換し、村に持ち帰るという取引が行なわれていました。
 天明2年(1782)に、額田〔ぬかた〕村・善法寺村・高田村の3か村は大坂の両国町などに下屎を汲み取りに行き、その見返りに大根を町人に渡していたと記録されています。当時の記述で「先祖より」「往古より」「数十年来」とありますから、かなり長い間にわたって取引関係があったものと考えられます。そして、大坂の人口増大(もちろん屎尿も増大)や屎尿肥料の商品的価値が高くなるにつれて、大坂市中に屎尿汲み取りを行なう専門業者(急掃除人)が登場します。
 大坂市中に本拠を置く急掃除人は大坂の下屎汲み取りを行ない、その下屎を周辺農村に売却する仲買的役割を果たすことになり、町人と農民の直接取引は減少していきました。直接取引がむずかしくなった摂津・河内両国の村々は、大坂町奉行所に大坂町家の下屎汲み取りの権利を強く主張し、結果的に明和6年(1769)、周辺農村に汲み取りの権利が優先的に与えられるようになりました。



桶船
「摂州、河州在郷の下糞 シモコヒ をとるに、桶をすへてこれに入おくの船なり。土桶 トヲケ船と云。又青物野菜の類を積て市に来る。...」(『和漢船用集』−海事史料叢書第11巻−より)



部切ヘキリ船
「(在郷の舟)糞 コへ をいるヽに幾間も仕切あるの名なり。此ゆへに間舟 マフネ とも云。在郷村々に用る者、又摂州に下糞仲買 シモコヘナカガヒの舟あり。」(『和漢船用集』−海事史料叢書第11巻−より)

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下屎仲間の結成

 下屎汲み取りの主導権を握った村々は「摂河在方下屎仲間(注2)」を結成し、大坂の町家での汲み取りをほぼ独占しました。この「直請〔じかうけ〕」と呼ばれる直接取引は、仲間の定めた「三郷町割(注3)」によって、1軒の町家(「請入箇所」と称する)に1人の農民(汲み取り権所有者=「請人」と称する)が汲み取り権を所有するという形態でした。
 摂河在方下屎仲間村々の分布状況については、次の図を参照してください。そのうち現尼崎市域村々の汲み取り箇所は、表1の通りです。

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在方下屎仲間加入の村々



在方下屎仲間加入の村々(小林茂『日本屎尿問題源流考』により作成)

対照番号
市域村名
大坂市中汲み取り箇所
1
戸之内村 山本町、船坂町、雑喉場町
2
初島新田 小浜町
3
次屋村 南裏町
4
椎堂村 中橋町、西国町、阿波橋町、山田町
5
常光寺村 百間町
6
富田村 衽町、屋根屋町
7
西難波村 神田町、京町堀一丁目
8
東難波村 信濃町、瀬戸物町、玉水町
9
別所村 阿波町
10
七松村 伊達町
11
三反田村 箱屋町
12
大西村 豊島町、海部堀川町
13
栗山村 釘屋町
14
尾浜村 釘屋町
15
小中島村 中筋村
16
田能村 南堀江二丁目
17
浜村 橘通六丁目
18
善法寺村 両国町、麹町
19
額田村 両国町、麹町
20
高田村 両国町、麹町
21
道意新田 小右衛門町、古川一丁目
22
下食満村 兵庫町
23
田中村 兵庫町
24
潮江村 坂本町
25
今福村 坂本町
26
法界寺村 石津町
27
穴太村 石津町
28
浜田町 九条島町
29
西新田村 南安治川二丁目、南安治川四丁目

表1 現尼崎市域村々の汲み取り箇所(上掲図と番号対応)

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汲み取りの実態

 摂河在方下屎仲間が成立する以前の寛保4年(1744)の史料によれば、大坂に摂河両国の240〜250か村程度の村々が直接下屎汲み取り(直請)に出向いていたようです。摂河全体で千か村以上あったわけですから、約4分の1程度の村々が参加していたことになります。仲間結成時には314か村、その後も少しずつ拡大しました。
 天明6年に善法寺村の三右衛門は大坂の海部〔かいふ〕町・海部堀川町・二本松町に合わせて9軒の請け入れ箇所を持ち、その代銀は年間1貫747匁〔もんめ〕でした(表2参照)。請人が町人に支払う代銀は下屎の搬出量ではなく、町家の居住者(7歳以上)に対して年間1人2匁5分(たとえば10人であれば25匁、幕末期には1人2匁)という申し合わせがありました。この基準価格から三右衛門が所有していた請け入れ箇所の人数を算出すると、約700人となります。ただし実際には町人側との個別交渉によって代銀の単価は一定ではありませんでした。申し合わせに反して、下屎の搬出量(単位は「荷〔か〕」、1荷=60リットル)によって契約が結ばれる場合もあったようです。少しでも安く下屎を手に入れたい農民と、少しでも高く下屎を売りたい町人の間で「かけ引き」が起こることは容易に想像できます。下屎の商品的価値が上昇することによって、農民同士の請け入れ箇所争奪が激しくなったことが、価格上昇を招いた大きな原因であったと考えられます。
 請け入れ箇所の所有権は町家の承認を必要とせず、農民同士で直接売買されていました。安政2年(1855)、摂津国西成〔にしなり〕郡三津屋村の庄兵衛が所有していた大坂江戸堀五丁目の請け入れ箇所3か所を、東新田村の庄右衛門たちが銀1貫300目で譲り受けています。

大阪市中の町名
請け入れ町人
代銀(匁)
海部町
中 屋 八兵衛
500
海部堀川町
北国屋半右衛門
360
海部町
酢 屋 七兵衛
55
二本松町
河内屋 伊兵衛
450
"
伊勢屋 権 吉
90
"
大和屋 利 八
20
"
山 下 三 筑
12
"
天王寺屋 東助
80
"
和泉屋 甚兵衛
180
3か町
        9名
1,747

表2 天明6年(1786)善法寺村三右衛門の下屎請け入れ箇所
出典:地域研究史料館蔵、寺田繁一氏文書「天明5年11月晦日下屎請け入れヶ所書上帳」 差出:善法寺村請け主三右衛門・同村庄屋伊右衛門、宛先:奉行



安政2年「下屎箇所譲り証文」(地域研究史料館蔵、柳川啓一氏文書(2))
右端枠:汲み取り箇所「大坂江戸堀五町目」、中央枠:「譲り主庄兵衛」、左側の枠:譲受人「同州(摂州)武庫郡東新田村庄右衛門殿・市郎兵衛殿・長右衛門殿」

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糶取と盗屎

 明和6年以降、ほぼ毎年のように「糶取〔せりとり〕」の禁止に関する話し合いが仲間加盟村々の間で行なわれています。糶取とは、農民Aが所有する請け入れ箇所の下屎を、農民BがAより高い代銀を町人側に支払い購入することです。右に挙げた東新田村の場合は権利そのものを購入しているため問題にならないのですが、糶取は権利を持たない者が勝手に汲み取り売買を行なうため、仲間の申し合わせに背くことになります。公法で罰せられることはないものの、仲間のルールに違反する行為であり、これは町割制度が終わりを告げる明治初年に至るまで頻繁〔ひんぱん〕に繰り返されています。慶応3年(1867)11月の仲間加盟村々「申合書」(地域研究史料館蔵、門田隆夫氏文書)には、資金を豊富に持っている農民が自分の田畑で利用する以上に大量の下屎を糶取によって買い集めているため、多くの農民が肥料不足に困っていることが記されています。
 糶取と並んで盗屎〔ぬすみごえ〕も多くあったようです。例えば天明9年、西成郡大和田村市平〔いちべい〕から善法寺村三右衛門に出された一札(「下屎不法汲み取り詫〔わ〕び証文」地域研究史料館蔵、寺田繁一氏文書)によると、三右衛門の所有する二本松町の請け入れ箇所で市平の使用人である安兵衛が勝手に下屎の汲み取りを行ない、たまたまその現場で取り押さえられ、すぐに大和田村の村役人にその様子が通報されました。このような盗屎の事例があきらかになることは少ないのですが、需要の高い下屎の窃盗行為は、かなりの数に及んだと思われます。以上の糶取や盗屎はもちろん仲間の申し合わせを無視した悪質な行為ですが、それと同時にいかに下屎が一般社会のなかで価値があったかがうかがえます。

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尼崎城下・城内・市域の村々

 尼崎城下でも周辺農村による屎尿の汲み取りが行なわれていました。もちろん城下町だけでなく、城内でも排泄物処理をしなければなりません。文化13年(1816)の史料によれば、城内の屎尿汲み取りは東新田村が請け負っていて、同村のうち「御城内肥取札〔こえとりふだ〕」を持つ百姓たちが定期的に出かけていたと考えられます。
 多くの農民たちが下屎の争奪戦を繰り広げるなか、関心を示さない村々もありました。友行村では大坂の下屎汲み取りに参加せず、仲間にも加盟していなかったようです。また加盟している村々でも、積極的な活動をしていたかどうか不明です。寛政2年(1790)に、大坂の急掃除人仲間が完全に廃止される(摂河在方下屎仲間が大坂市中の町家の下屎を独占的に汲み取る)段階になると、善法寺村の村役人たちから幕府代官所に対して、急掃除人差し止めに反対する願書が提出されました。急掃除人が汲み取りを禁止されると、在方村々仲間に加盟する村々は汲み取り範囲を拡大することができ、農民たちにとっては有利なことのように見えるのですが、善法寺村では反対する理由として、@大坂三郷の下屎の汲み取りは周辺農村の百姓だけでは十分行き届かない、A村内の百姓には毎年町家に支払う代銀を調達するのに苦労している者もおり、さらに請け入れ箇所が増えることになれば代銀を払えない可能性がある、というものでした。そのため善法寺村は、在方仲間村々一同が提出する急掃除人差し止め願書に署名・押印をしないということになりました。結果的に大坂町奉行所は急掃除人仲間の廃止を命じており、また善法寺村はその後も在方仲間に加盟し続けています。

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明治期の屎尿汲み取り

 明治維新以降、下屎および小便の在方仲間は解散を命じられ、明治7年(1874)に「大阪府屎尿取締所」が発足します。大阪府という名前が付けられていますが、行政機関ではなく、実質的な運営は江戸時代の在方仲間と同様に大阪周辺の農民たちが行なっていました。明治13年の下屎代価は、6歳以上の町人1人に対し西区では年間26銭5厘、北・南区では25銭5厘となっていました。ただし、明治初年のコレラなどの伝染病流行により、屎尿の汲み取りにはさまざまな規制ができました。たとえば、大阪市中における汲み取り時間は午前4時から8時に限定する(のちに修正、5月1日から8月31日は午前5時から9時、9月1日から4月30日は午前5時から11時)。時間外に汲み取り作業を行なった者には違約金5銭を科す。また、運搬に際して屎尿を入れる担桶〔たご〕・船のすべてに蓋〔ふた〕をする、などの規制です。
 このように公的に義務付けられた規則は、伝染病は排泄物から感染する、あるいはその「臭気」によって流行するのだという発想から作られたもので、そもそもは農業肥料としての利用により脚光を浴びた屎尿は、衛生政策のなかに位置付けられるようになっていきました。

〔参考文献〕
小林茂『日本屎尿問題源流考』(明石書店、昭和58年)
『新修大阪市史』第4巻(平成2年)
『人づくり風土記:江戸時代27・49大阪の歴史力』(農文協、平成12年)

〔注〕
(1)下屎 「下肥」とも記されますが、大坂周辺地域では史料上「下屎」と記される場合がほとんどであり、本項でもそれに従いました。また、近世初期における畿内諸都市の一般的な町家では、建物構造のなかで「大便場」「小便場」と区別されていることも多かったことから、それぞれに取引関係が発生したと考えられます。
(2)摂河在方下屎仲間 「摂河在方三一四ヶ村并新田方七ヶ村下屎仲間」が正式名称ですが、本項では略称の「摂河在方下屎仲間」を使用します。下屎仲間に加盟する村々の地理的範囲は、摂津では大坂近在の西成郡・東成郡のほか、高槻付近から神崎川筋、中津川筋一帯、猪名川流域から尼崎付近、西端は武庫川下流の鳴尾付近です。河内では北河内地域(淀川筋中心)一帯です。また、小便取引を行なうのは「摂河小便仲間」と呼ばれるもので、摂津では西成郡・東成郡・住吉郡が中心で、河内では北河内から中河内にかけた一帯です。
(3)三郷町割 明和6年の在方仲間成立時に、農民同士が町家の下屎を争うことのないよう作られたもので、それまでの取引関係を重視して作成されたと言われています。○○町の○○屋さんの屋敷は、△△村の△兵衛さんが汲み取りの権利を持っているというように、非常に細かく決められています。「寛政二年 三郷町割帳」(関西大学図書館蔵、門真四番村文書)には、どの町にどの村が請け入れ箇所を持っているかがすべて記されています。

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