近世編第1節/幕藩体制の成立と尼崎2/幕藩体制における大坂(岩城卓二)




将軍の城・大坂城

 慶長20年(1615)5月、大坂夏の陣によって豊臣家は滅亡しました。夏の陣は、1世紀あまり続いた戦乱の時代に終止符を打つ戦いでもあり、世は平和な時代へと、大きく前進することになりました。
 この夏の陣によって、秀吉が築いた「天下無双」の 大坂城は炎上、大坂市中も焦土と化しました。焼け野原となった大坂には、徳川家康の孫である松平忠明〔ただあきら〕が10万石の所領を得て入封します。忠明は大坂復興に尽力しましたが、豊臣時代の賑〔にぎ〕わいを取り戻すには至らなかったと言われています。
 大坂が往時の活気を取り戻すのは、元和5年(1619)幕府の直轄地になって以降のことです。幕藩体制下の大坂は、全国経済の中心地として繁栄し、諸国の物産が集まることから「天下の台所」と言われますが、幕府が直轄地とした当初の目的は、大坂を西国有事に備えた幕府の軍事拠点とするためでした。それまで、西国の軍事拠点であった伏見城(京都府)は廃城とされ、新たにその役割を担うことになる大坂城の再建が翌6年3月から始まり、寛永6年(1629)まで、3期にわけて行なわれました。
 その結果、徳川大坂城は、江戸城・二条城(現京都市)・駿府〔すんぷ〕城(現静岡市)と同じく、将軍が直轄する番城〔ばんじろ〕となりました。大坂城は、将軍の城として生まれ変わったのです。
 この大坂城には、大坂城代を長に、大名・旗本からなる幕府の軍隊が駐屯し、有事に備えました。天守閣は、寛文5年(1665)の落雷によって焼失後、再建されませんでしたが、以後、幕末まで大坂城は幕府の軍事拠点として西国に睨〔にら〕みをきかせることになったのです。

大坂城
 現在、大阪市中央区にある大阪城は大坂夏の陣後に再建された徳川大坂城です。徳川大坂城は焼け残った豊臣大坂城の石垣に土盛りをして再建されたため、現在、豊臣大坂城の威容を肉眼で確かめることはできません。また天守閣の位置をはじめ豊臣大坂城と徳川大坂城は大きく異なります。
 徳川大坂城の天守閣は17世紀に落雷によって焼失し、昭和6年(1931)に市民などの寄付で再建されました。しかし多聞櫓〔たもんやぐら〕・乾〔いぬい〕櫓や石垣などは江戸時代のまま残されています。城内には本丸御殿のほかに、大坂城を守衛する幕府役人の屋敷が建てられていましたが、現在は残されていません。
 現在、大阪城内は公園として開放されていて、徳川大坂城再建に動員された諸大名の刻印が押された石を見ることができます。また、天守閣内は博物館となっていて、豊臣大坂城や徳川大坂城のことが詳しく展示されています。
 なお、大阪城天守閣特別展図録『大坂再生』には大坂夏の陣から大坂城再建に至るまでの過程が、関係資料とともに詳述され、巻末には参考文献も記載されており便利です。また、大坂周辺が戦場となった大坂夏の陣については同書のほかに、八尾市立歴史民俗資料館特別展図録『大坂の陣と八尾』が参考になります。
 こうした博物館図録は歴史を学ぶうえでたいへん役立ちます。

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一大軍事拠点の成立

 大坂周辺は、豊臣家や豊臣系大名の所領が占めていましたが、大坂城を将軍の城にするという幕府の構想に沿って、大坂周辺の軍事的要衝〔ようしょう〕には次々と徳川系大名が配置され、一大軍事拠点が形成されていきました。
 なかでも大坂に近接する尼崎は重視され、元和3年(1617)、勇猛な武将として名高い戸田氏鉄〔うじかね〕が配され、旧城を大きく上回る新尼崎城普請が始められました。同年には京都に近い高槻や、姫路・明石といった山陽道の要衝にも、有力譜代〔ふだい〕大名が配されています。大坂を直轄地にする前に、まず北や西の守りが固められたのです。
 大坂が幕府の直轄地とされる元和5年には、続いて南の守りが固められました。豊臣家と縁の深い浅野家が治める和歌山には、家康の十男頼宣〔よりのぶ〕が55万石で入りました。その和歌山と大坂の中間に位置する岸和田には、豊臣系大名小出家に代わって、松平康重〔やすしげ〕が配されました。その他、奈良・京都に近い大和郡山には、大坂から松平忠明が移されました。
 このように、豊臣家の基盤であった大坂周辺には、次々と徳川系の有力譜代大名が配され、幕府の一大軍事拠点へと生まれ変わっていったのです。



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元和5年城持ち譜代大名配置図


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大坂城守衛分担図


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分散錯綜する所領

 これらの大名領以外には、幕府領と、大坂城を守衛する大坂城代・大坂定番〔じょうばん〕などが就任にともない与えられる役知〔やくち〕領、旗本領、寺社領などの私領が広がっていました。また、ひとつの村を複数の領主が支配する相給〔あいきゅう〕村も多く見られました。
 一部の大名領を除くと各所領は小規模で、分散錯綜〔さくそう〕していました。この分散錯綜が大坂周辺所領配置の特徴で、大坂に近いほど幕府領が多く、離れるほど私領が多くなるという傾向がありました。しかし、村でありながら商工業者が集住する在郷町などの経済拠点は、大坂と離れていても幕府領であることも少なくありません。たとえば富田林〔とんだばやし〕・国分〔こくぶ〕・柏原〔かしわら〕(現大阪府)など在郷町や、これら在郷町周辺の石川・古市・安宿〔あすかべ〕郡には、幕府領が多く配されていました。ただし18世紀には、幕府領から私領となることも少なくありませんでした。また京都周辺には、公家領・寺社領など京都と関係のある所領が多く見られました。
 このように大坂周辺の所領配置は、軍事的・経済的・地理的条件が絡み合いながら決められていたのです。

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大坂周辺所領の役割

 大坂周辺の幕府領は、大坂城が必要とする物資を供給していました。その年貢米の一部は大坂城内あるいは有事の際に兵糧米〔ひょうろうまい〕となる城米を貯蔵する各大名家の蔵に納められました。大坂周辺では、淀・尼崎・岸和田藩をはじめ譜代大名家の蔵で城米が蓄えられました。
 さらに、有事の際、幕府領民は兵糧米・荷物などを運搬する人足として幕府に動員されることになっていました。これを陣夫役〔じんぷやく〕と言います。たとえば、幕末の長州戦争時には、村ごとに陣夫役が賦課〔ふか〕されています。大坂周辺の幕府領は、将軍の直轄城である大坂城の維持や、幕府の戦争遂行を支えるという役割を担っていたのです。大坂城に近接する地域が一円幕府領なのは、こうしたこともひとつの理由でした。
 大坂周辺には、幕府の重職に就いた大名・旗本の領知が多くありました。これを役知領と言います。たとえば、大坂城代に就任すると、大坂周辺に役知領を与えられることが多く、その年貢の一部は大坂での経費に充てられました。また領民は、大坂城代屋敷で人足として働く武家奉公人に徴用されることもありました。
 こうした役知領は、大坂で役職に就いた領主の活動を支えるために本領以外に与えられたものでしたが、17世紀には役職を辞任しても幕府に返されないことが多く、自家の所領として代々相続できました。そのためたとえば本領は関東に有しながら、大坂周辺でも所領を有する大名や旗本がいました。こうした大坂周辺以外に本領を持つ大名の所領を飛〔と〕び地領〔ちりょう〕と言います。大坂周辺には飛び地領が多く見られますが、この多くは、かつて大坂城代・大坂定番などを務めたときに得たものでした。
 また、役知領として新たに得た所領は、家督相続にあたって、嫡男以外の二男・三男・四男などに分割相続されることも少なくありませんでした。分割相続されると、所領はどんどん小さくなっていきます。大坂周辺の所領が分散錯綜している理由のひとつは、役知領が分割相続されるためでした。しかし、18世紀になると、役知領の領有は役職期間中だけに限られ、辞任後は幕府に返されるようになりました。
 17世紀には領主交代が激しかった大坂周辺も、18世紀に入ると、役知領以外ではあまり交代しなくなります。役知領となる村は幕府領であることが多く、こうした村々は、18世紀以降も、幕府領→役知領→幕府領と、領主の交代を繰り返しました。尼崎周辺では、神崎川西岸にこうした所領が見られます。

〔参考文献〕
八木哲浩「大坂周辺の所領配置について」(『日本歴史』231、吉川弘文館、昭和42年)
横田冬彦「『非領国』における譜代大名」(『地域史研究』29−2、平成12年)

村の領主を調べるには
 大名領・旗本領・幕府領・飛び地領、さらには相給村などが分散錯綜し、しかも領主がしばしば交代した市域村々の領主の変遷〔へんせん〕を調べるには、次のような方法があります。
〔文献から調べる〕
『尼崎市史』第2巻第5章第2節「幕藩体制の確立と尼崎地方」
『角川日本地名大辞典28兵庫県』角川書店、昭和63年
『日本歴史地名大系29兵庫県の地名』1、2 平凡社、平成11年
『旧高旧領取調帳 近畿編』東京堂出版社、平成7年
〔古文書から調べる〕
 その村の古文書が残っている場合、その古文書を使って調べることもできます。とくに、年貢免定〔めんじょう〕(免状)や御触書〔おふれがき〕などは、領主の名前が記されている例が多くあります。村の石高や年貢を記した郷帳〔ごうちょう〕も、役立つことでしょう。
 地域研究史料館には、こういった古文書類が多く収蔵されていますから、調べてみようという人は足を運んでみてください。

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元禄期、尼崎周辺の所領配置図


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