近代編第1節/尼崎の明治維新4/近代的教育制度の創出(山崎隆三・地域研究史料館)




「学制」の実施

 近世後半、すでに藩校や寺子屋などが各地に開設されており、日本社会は一定の教育水準に達していたと言われています。幕末から明治初年頃の寺子屋普及率からみて、男子識字〔しきじ〕率(読み書きできる人間の比率)は40%以上という推計もあります。
 こういった民間教育機関に依拠したシステムに替えて、公〔おおやけ〕による国民教育を徹底すべく、政府は教育制度の整備に着手します。明治4年(1871)7月に文部省を設置し5年8月には「学制〔がくせい〕」を公布。これにより全国を8大学区に分け、各1大学区を32中学区、各1中学区をさらに210小学区に区分し、それぞれに大学・中学・小学を設置する構想を打ち出します。小学区は人口約600人、中学区は約13万人を基準に設定され、小学区には区域内の学齢児童全員を収容し得る小学校の設置を義務付けました。なお全国8大学区は明治6年4月に7大学区に改編されます。
 人口19万人と基準より6万人多い第二次兵庫県が第4大学区第23番中学区(明治6年4月以降は第3大学区)に指定され、明治6年末までに公立158校、私学2校が開校。兵庫県は域内を校数とほぼ同数の161小学区に編成します。学制の基準に対して、現実の小学校開設数がかなり少なかったことがわかります。

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現市域に開設された小学校

 明治6年末までに現尼崎市域に設置された小学校は、公立23校・1分校、私学1校でした。このうちもっとも早く明治6年2月に開校した常松〔つねまつ〕小学は、常松村浄正寺の秦野〔はたの〕塾を母体に発足。学制公布に感ずるところのあった同塾3代目の秦野恵祥が、志願して設立したと伝えられます。
 尼崎町・別所村には6校が開設されており、そのうちの1校は、藩校・正業館〔せいぎょうかん〕の後を受け継ぎ別所村に開校した正業小学でした。明治2年に尼崎藩の儒学者・中谷雲漢〔うんかん〕を督学〔とくがく〕(校長)として開校した正業館は、廃藩置県〔はいはんちけん〕とともにわずか2年で廃止され、藩校跡には兵庫県の尼崎出張所が置かれます。その払い下げを受けて明治6年10月、士族の子弟を対象とする正業小学が開校。「兵庫県史料」によれば、初代校長は元尼崎藩士の粟津昌国でした。なおこの正業館・正業小学の場所が、のちの開明小学校の校地にあたります。
 このように旧藩校を受け継ぐ学校の一方で、尼崎町内には庶民教育の流れを汲〔く〕む小学校も、民家や各町の会議所(寄り合い所)などを利用して開設されました。

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明治初期教育行政の課題

 兵庫県は小学校設立・運営や就学率向上を推進するため、明治6年10月以降区ごとに学区取締を任命し、教育行政を担当させました。市域では、旧姫路藩士の中島成教が第7・第8学区取締に、旧尼崎藩士の久保松照映が第9〜11学区取締(のち第12・13学区兼任)に就任しています。このようなてこ入れに加えて、小学校未設置の学区に対し、県は区長・戸長を通じて督促を繰り返しますが、小学校開設はかならずしも順調にはすすまず、逆に明治6年5月に開校しながら8年11月には常吉〔つねよし〕小学に合併した守部〔もりべ〕小学のような例もあるなど、村々による小学校の開設・維持は容易ではありませんでした。
 学校建設費や教員の給料などの運営費は、文部省からの扶助〔ふじょ〕金(明治6年段階で小学校経費の12%程度、その後は10%以下)を除いて、学区住民の負担と授業料によりまかなうこととされていました。しかしながら、市域の公立23校のうち、現実に授業料を徴収し得たのは4校に過ぎませんでした。また、学区には独自に学校費を徴収する機能がないため、実務を担ったのは行政区と町村でした。明治6〜8年の民費〔みんぴ〕(町村費)内訳が判明する常吉村の場合、3年間の合計1,117円94銭のうち学校費が122円80銭と1割以上を占めました。加えて校舎建設時は1村の年間民費合計額ないしそれ以上の費用が必要となり、一般への賦課〔ふか〕に加えて有力者からの寄付を財源とするのが通例でした。
 このように、学区ごとの小学校維持は困難であり、さらに当初の小学校は寺院や民家などを仮校舎としたものが多かったことなどから、明治9〜10年頃に移転や新築、統廃合が行なわれます。この結果、明治10年12月に第23番中学区は67小学区に再編され、現市域は尼崎町・別所村を6校の連小学区としたのを除いて、原則として1小学区1校となりました。
 就学率の向上も、この時期の重要な課題でした。当時の児童は家庭の貴重な労働力であり、教育に対する保護者の理解がいまだ低いこともあって当初の就学率は低く、たとえば明治10年の尼崎町の場合、学齢児童数2,284に対して就学者数1,014で就学率44.4%、日々平均出席率はさらに低く33.7%でした。就学率が抜本的に改善され80〜90%以上となるのは、明治30年代以降のこととなります。

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旧城下風呂辻町(現東本町2丁目付近)にあった「学湯」

 「がくとう」あるいは「まなびゆ」と読ませたのでしょうか。風呂辻町には、小学校費をまなかうため町が経営する珍しい銭湯がありました。明治10年2月7日の学湯開業当時、風呂辻町の児童は西隣の別所町にあった城東小学に通っており、その後は初期小学校の離合集散にともない通学する(つまり風呂辻町が経費を負担する必要がある)小学校はいく度か変遷しています。
 風呂辻町の田中七平家文書には「出入勘定帳」と記された横帳が残っていて、学湯の開業からおおむね明治22年分までの会計を記録しています。その記載内容から、学湯は家2軒と風呂を買い取り改装して開業したこと、開業費用の444円余りは町の有力者である田中七平や長田弥平らが用立てたと考えられることなどがわかります。明治12年頃には毎月4円26銭4厘を学校費として支出しているほか、町に課せられた学校の臨時経費も学湯の会計からまかなっていたようです。
 学湯がいつまで続いたのかわかりませんが、その後を受け継いだ個人経営の銭湯もまた、昭和20年(1945)の戦災により焼失するまで、「学校湯」の名で親しまれたということです。
 ところで「風呂辻」という町名は、中世の尼崎町にあった湯屋(風呂屋)に由来すると言われています。昔からお風呂に縁のある町だったのですね。


「風呂辻町学湯出入勘定帳」(地域研究史料館蔵、田中七平家文書(2))の表紙と裏書

井上眞理子 画

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明治初期小学校の教科内容

 学制は小学校を下等4年(6〜9歳)、上等4年(10〜13歳)にわけ、綴字〔つづりじ〕・読本〔とくほん〕・修身〔しゅうしん〕・算術・地学・理学・史学・化学・体術など計18科および外国語学などの随意科を定めました。また明治5年9月布達の小学教則は、日曜を除いて1日の授業5時間・週30時間とし、教科内容をさらに具体的に規定しました。
 下の写真は、学制実施後間もない時期に守部〔もりべ〕小学で使われていたと考えられる教科書です(地域研究史料館蔵、高河原助右衛門氏文書)。親しみやすいようにとの配慮からか、鶏や牛などを例にとった問題を出題しています。この算術書は巻一から巻四まであり、足し算、引き算、かけ算、割り算にそれぞれ1巻を割り当てて、四則演算を順に学習する内容となっています。
 各教科を教える小学教員について、学制は20歳以上で師範学校卒業免許状または中学免状を持つ者と定めました。しかしながら正規の資格者の養成が間に合わず、士族や僧侶・神官・医師など学問にあかるい人々が委嘱を受けて教壇に立ち、初期の教育現場を担いました。


『小学算術書』巻一および、その一部の拡大(地域研究史料館蔵、高河原助右衛門氏文書)

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