近代編第2節/尼崎の町と村4/企業勃興(山崎隆三・地域研究史料館)




起業ブーム到来

 明治14年(1881)の政変により、大蔵卿に就任した松方正義〔まさよし〕がとった厳しい緊縮財政政策のもと、明治10年代後半の日本は激しいデフレーションに見舞われます。このため士族や小規模商工業者といった都市住民の貧困化や、農村部における下層農民の土地喪失・小作化が進行し、膨大な失業・半失業状態の階層が生まれます。その一方で、過剰に発行された紙幣の整理がすすんだ結果、物価が下落し通貨価値も安定。明治18年から19年にかけては銀兌換〔だかん〕制度が整備され、日本は事実上の銀本位制をとるようになりました。
 ちょうどこの時期、国際的に銀貨が下落したため為替〔かわせ〕相場は円安となり、日本からの輸出が好調となります。これをきっかけとして景気は好転し、鉄道・紡績・鉱山業などの分野を中心に企業設立が相次ぎました。日本銀行は低金利政策をとり、国内に向けての豊富な資金供給を通じてこの起業ブームを支えました。また、都市や農村に滞留〔たいりゅう〕する失業・半失業状態の人々が、労働力の格好の供給源となりました。
 こうして明治10年代末以降、日本経済は最初の企業勃興〔ぼっこう〕期を迎えます。尼崎町においても、金融・鉄道・マッチ・紡績などの各産業部門において企業が創設され、経済は活況を呈するようになります。

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銀行の創業

 起業ブームのなか、貯蓄と投資の場を求めて、尼崎町においても金融機関の設立が求められます。すでに明治10年に、尼崎町の士族と商人資本が合同して国立銀行設立を出願していましたが認められず、尼崎町最初の金融機関実現は、明治22年5月の尼崎銀行開設まで待たねばなりませんでした。大地主で町内有数の資産家であった本咲〔ほんざき〕利一郎や、醤油醸造業者の大塚茂十郎〔もじゅうろう〕、士族の村松秀致らが発起人となり、同行は資本金10万円で設立されました。当初の店舗は東町の市庭〔いちにわ〕町に置かれていました。
 尼崎銀行に続いて明治26年3月には、やはり大地主・大商人である梶源左衛門を中心に、資本金3万円の尼崎融通〔ゆうずう〕株式会社が設立され、28年10月には尼崎共立銀行となります。別所村に店舗を置き、西町を地盤としており、東町の尼崎銀行とともに、明治期尼崎町の経済にとって大きな役割を果たしました。

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元尼崎共立銀行本店(現西本町3丁目、本町ビル)

 本町〔ほんまち〕通りの南側にあった尼崎共立銀行は、大正12年(1923)3月、通りの北側に鉄筋コンクリート造・地上2階・地下1階の本店ビルを新築します。同行はその後山口銀行、さらには三和銀行に吸収されますが、旧本店ビルは支店として使われ続けました。設計者不明ながら、尼崎に残る数少ない鉄筋コンクリート製・大正期民間建築物のひとつとなっています。


昭和45年、市史編修室撮影

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馬車鉄道から蒸気機関へ

 明治7年に阪神地域最初の鉄道として開通した大阪・神戸間の官設鉄道は、尼崎町の中心である旧城下から約2キロ北方の農村地帯を通過していました。小田村地内に開設された神崎駅(現JR尼崎駅)は、尼崎の旧城下からも川辺郡役所がある伊丹町からも離れていたため、これらの間をつなぐ交通手段が、やがて望まれるようになります。
 それが具体化したのは、明治20年のことでした。同年4月、尼崎町の伊達〔だて〕尊親・梶源左衛門ら7人と、伊丹町の小西壮二郎ら5人に、加茂村(現川西市)の岩田秋平を加えた計13人が発起人となって、政府(鉄道局)に対して川辺馬車鉄道の計画を出願します。翌明治21年11月に営業が認可され、敷設工事を経て24年開通。旧城郭内の尼崎停車場より武庫川上流の川面〔かわも〕停車場(現宝塚市)までの計画路線のうち、まず同年7月24日に大物〔だいもつ〕停車場を経て官設鉄道神崎駅南西に位置する長洲〔ながす〕停車場までの区間が開通し、さらに9月6日(8月15日とする史料もある)には塚口停車場・伊丹南口停車場を経て伊丹停車場にいたる区間が開通。尼崎・伊丹間約8.26qを1時間5分〜10分で結び、馬27頭・客車7両・貨車8両をもって1日9往復する運行を開始しました。
 しかしながら、馬力では輸送力が不足するため、明治25年にははやくも蒸気機関車への変更が計画されます。同年6月、摂津鉄道への社名変更と資本金10万円から24万円への増資、計画路線をさらに武庫川上流の生瀬〔なませ〕村(現西宮市)まで延伸することなどを内務大臣宛に出願。12月に認可され、既存線改装ならびに延伸工事を経て、翌明治26年12月には小戸〔おおべ〕村(現川西市)までが開通しています。
 この際、馬車鉄道時代に認められていた官設鉄道横断が、貨車の人力による横断以外はできなくなりました。このため官線神崎駅の南北に長洲駅を設けて、乗客は徒歩で横断することとなり不便を強いられますが、尼崎・長洲間10分、長洲・伊丹間12〜13分と時間は大幅に短縮され、運行数も1日14往復と増便されます。また、増資にともない大阪資本の占める割合が増し、社長が尼崎町の伊達尊親から大阪の鴻池〔こうのいけ〕新十郎に交替するといった経営上の変化がありました。
 こうして発足した摂津鉄道は、その後明治30年2月に阪鶴〔はんかく〕鉄道に買収されます。阪鶴鉄道というのは、明治26年、日本海の貿易港舞鶴〔まいづる〕(京都府)と大阪を結ぶことを企図して、大阪財界が中心となって設立した資本金400万円の鉄道会社でした。摂津鉄道買収とともに同線以北の敷設工事をすすめ、明治32年7月には尼崎・福知山間を全通。大阪・神崎間の官線乗り入れに加えて、明治37年12月完成の官線舞鶴線にも乗り入れ、ついに大阪・舞鶴間の直通を実現します。明治40年8月には、鉄道国有化方針により阪鶴鉄道も国有化されました。明治42年10月に線路の名称が阪鶴線と定められ、明治45年3月には福知山線と改称。これにより、尼崎・塚口間の路線は同線尼崎支線となりました。


阪鶴鉄道路線 『尼崎市史』第3巻付図(明治42年陸地測量部地形図)より
 国有化後のため、地図上には「阪鶴線」「貨物支線」と記されています。

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マッチ工業と製紙業

 尼崎町のマッチ製造業は、士族授産が多少とも軌道に乗った数少ない事業分野のひとつでした。しかしながら明治10年代の経済変動のなか、13年以降に授産金貸し下げを受けた23社のうち、19年末に存続していたのは、小森純一ら3人の士族が明治14年4月に別所村に設立したマッチ製造会社・慈恵〔じけい〕社など4社に過ぎませんでした。
  明治20年代に入ると、慈恵社の後継である共拡社(のちに燧豊火柴廠〔すいほうかさいしょう〕、さらには小森燐寸〔マッチ〕製造所と改称)に加えて、日清社、阿波燐寸製造所、小島〔おじま〕燐寸製造所、尼崎燐寸製造(株)といった各社が主として清国市場向けのマッチを製造し、尼崎町においては紡績業に次ぐ重要産業としての位置を占めました。
  また、明治20年代にマッチ工業に関連して発足したものに、明治27年4月に小田村常光寺に開設された真島〔まじま〕製紙所があります。マッチ廃材からパルプを製造する計画で設立されたもので、その後たび重なる改組改称や企業合併を経て、今日に至るまで製紙工場として存続しています(現新王子製紙神崎工場)。

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紡績業

 近代日本における機械綿糸紡績業が飛躍する大きな画期となったのは、渋沢栄一が明治16年に大阪府西成郡三軒屋村に設立した大阪紡績の成功でした。蒸気機関の採用や電灯照明による昼夜2交代操業、輸入綿花の原料使用などにより好成績・高配当を実現した同社は、明治22年、最新鋭のリング精紡機3万錘〔すい〕を備えた新工場を建設します。大阪紡績の成功に刺激されて、明治20年代には1万錘規模の大規模紡績工場が各地に設立され、国内需要向けのみならず輸出産業として、明治後期から昭和戦前期にかけての日本経済を支える重要産業の地位を確立していきます。
 こうした流れのなか、尼崎町においても明治22年6月、旧城下の辰巳町に尼崎紡績が設立され、尼崎地域における大規模製造工場立地・工業地帯化の皮切りとなりました。尼崎と大阪の資本が提携して設立した企業でしたが、その後はむしろ大阪資本の大株主が優勢となり、地元企業という性格は急速に薄れていきます。これとは対照的なのが、梶源左衛門らが明治26年に旧城郭〔じょうかく〕内に設立した三収組〔さんしゅうぐみ〕紡績所でした。地元尼崎の資本による小規模紡績会社でしたが、明治30年代半ばには不振に陥〔おちい〕り解散する結果となりました。
 紡績業の台頭は、同時に周辺産業の発達をもたらします。そのひとつとして尼崎町において成功したのが、明治27年、それまで輸入品に頼っていた紡績業の重要部品トラベラーの製造に成功した辰巳町の金井兄弟商会でした。尼崎紡績に勤めていた金井熊吉が研究開発の末実現にこぎ着けたもので、同商会は明治40年8月に旧城郭内に金井トラベラー製造所を設立。その後も事業を拡大し、紡績機械部品製造メーカーとして大きな成長を遂〔と〕げていきました(現金井重要工業)。

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尼崎紡績の創設

 江戸時代、摂津国の川辺郡・武庫郡・豊島〔てしま〕郡は、「阪上綿〔さかじょうめん〕」と呼ばれる最上質の綿の産地として知られていました。この尼崎近辺に産する上質綿の加工を意図して設立計画がすすめられたのが、尼崎紡績でした。有限責任会社として明治22年6月19日付けで設立が認可されており、のち明治26年には株式会社となっています。
 設立に加わったのは、尼崎町と大阪の資本家たちでした。当初は資本金100万円、精紡機5万錘と計画されますが、資本募集の困難からひとまず50万円・2万錘で出発することとし、明治23年に1万錘をもって操業を開始します。兵庫県下初の1万錘規模紡績工場でした。
 尼崎紡績は、紡績技術をイギリスで学んだ平野紡績技師・菊池恭三を技術顧問に招へいしています。明治23年9月、煉瓦〔れんが〕造り2階建ての工場を完成させた尼崎紡績は、最新式のリング精紡機を導入。旧来型のミュール機とリング機を併用する工場が多いなか、平野紡の経験から生産性の高いリング機の優位性を認める菊池の指導のもと、当初から全面的にリング機を採用したことが尼崎紡績の成功につながりました。太糸少量生産に適するミュール機に対して、リング機は細糸の大量生産に適しており、この特性を活かして中糸・細糸に生産重点を置くことで他企業と製品を差別化し、尼紡は市場において独自の位置を占めることに成功します。
 なお、当初原料として意図された阪上綿は機械紡績には適さず、安価で比較的長繊維のインドや中国・安南産綿がおもな原料として用いられることになりました。
 こうして経営を軌道に乗せた尼崎紡績は、その後規模の拡大と企業合併を繰り返し、大正7年には大日本紡績と改称、日本最大規模の紡績会社となりました。
 明治33年、尼崎紡績は辰巳町(現東本町1丁目)に煉瓦造りの本社事務所を建設します。大正7年に本店営業所が大阪市内に開設されると、尼崎工場事務所となりました。その後変遷〔へんせん〕を経て昭和34年(1959)に日紡記念館、同44年には合併にともなう社名変更によりユニチカ記念館となり、屋内には尼崎紡績以来の社史資料が保存・展示されることとなりました。
 英国式に積まれた煉瓦は、英国からの輸入品と伝えられています。みかげ石製の窓台を設けたアーチ型窓や、応接間の暖炉、玄関の石畳、階段手すりの彫刻などに、当時の建築の特徴がよく表れています。

ユニチカ記念館(平成17年、井上衛〔まもる〕氏撮影)
 市域に残る数少ない明治期煉瓦建築のひとつです。

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企業勃興を担った人々

 最後に、こういった明治20年代の企業勃興を尼崎町において担った人々のうち、代表的な資本家を紹介することとします。




梶源左衛門

   天保11(1840) ―大正9(1920) 近世以来、中在家〔なかざいけ〕町において両替商や質商を営んだ梶家は、明治中期には後述する本咲家とならんで、尼崎町を代表する大地主となります。当主の源左衛門は川辺馬車鉄道や尼崎融通(株)など多くの起業活動に関与し、明治22年の尼崎紡績設立時には株式引き受け限度の1万円(400株)を出資して取締役となりますが、同社が大阪資本中心となるにつれて関係を絶っています。その一方で、明治26年の三収組紡績所開設を主導しており、小規模であっても地元密着の紡績業を育成したいという意図があったものと思われます。しかしながら、同紡績所は明治30年代に経営が行き詰まり、経営者である梶家も大きな経済的打撃を受ける結果となりました。


小森純一

 弘化4(1847)―昭和11(1936) 元尼崎藩士。尼崎町会・市会一級議員であり、明治30年前後には町長も務めました。明治13年に兵庫県から士族授産資金の貸し下げを受け、翌14年4月、他のふたりとともに資本金1,300円の慈恵社を設立。苦心の末、国内では使用が禁止されていた黄燐マッチの製造に成功します。清国への輸出により業績を伸ばしますが、資金不足から明治22年にいったん解散して個人経営の共拡社として存続。その後増資して経営を拡大し、24年に燧豊火柴廠〔すいほうかさいしょう〕、30年には小森燐寸製造所と改称し、尼崎町におけるマッチ工業の中核を担う存在となりました。なお、同業者である小島燐寸を経営した小島敏衛は、小森の従兄弟〔いとこ〕にあたります。また、大正10年創立の尼崎信用組合においては、初代組合長を務めました。こういった企業活動の一方で、小森は明治19年に洗礼を受けてプロテスタントとなっており、25年に発足する尼崎伝道教会の創設者に名をつらねました。明治中期以降繰り返し問題となった尼崎町への遊郭設置問題においては、反対派の中心人物のひとりでした(本節3コラム参照)。


伊達〔だて〕尊親

 弘化4(1847)―明治36(1903) 元尼崎藩士・尼崎町戸長〔こちょう〕。明治22年4月に町村制が施行されると尼崎町一級議員となり初代町長に選出されますが、町議会における東町派(町人派)と西町派(士族派)の対立(本節3参照)のなか、就任2か月後の7月には早くも町長を辞任。その後は町会議員として町政に関わりました。その一方で、川辺馬車鉄道の設立に際しては発起人となり、のち社長に就任。尼崎紡績においても発起人に名をつらね、さらに町長として設立願書に副申書を添えるなど創立に尽力しました。士族でしたが尼崎町の商人らと共同行動をとっており、東町派に属したと考えられます。


平林昌伴

 文政7(1824)―明治32(1899) 元尼崎藩士。藩の会計掛を務めた平林は、伊丹の豪商・小西新右衛門が尼崎藩をはじめとする諸藩の士族公債(秩禄〔ちつろく〕公債)を買い取る仲介人を務めており、その過程で蓄財したものと考えられます。尼崎紡績創設に際しては工場敷地買収に尽力し、明治24年には監査役に就任しました。尼崎町制施行直後に1級議員に当選しますが、わずか2か月で辞任しています。


本咲〔ほんざき〕利一郎

 慶応3(1867)―昭和4(1929) 中在家町の豪商、泉屋(本咲家)当主。泉屋は近世の新田開発に多く携わり、新城屋・東高洲〔たかす〕・又兵衛といった臨海部に広大な土地を所有していました。明治期尼崎町最大の資産家のひとりであった利一郎は、その財力を背景に数々の企業設立に関わります。尼崎紡績創設においては、梶源左衛門と同じく400株を所有する最大株主のひとりとなり、取締役に就任。尼崎銀行設立においても発起人の中心であり、頭取に就任しています。また、尼崎町会・市会1級議員も務めました。

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