近代編第1節/尼崎の明治維新5/地租改正(山崎隆三・地域研究史料館)




明治維新政府の財政課題

 地租改正とは、維新政府が財政的基礎を確立するため実施した土地・租税制度改革です。政府が近代国家確立のための諸施策を実施していくうえでは、その財源として幕藩制下の貢租水準を維持継承することが必要不可欠でした。同時に、複雑な近世の土地所有関係と租税体系を整理し、土地貢租の統一化を図っていくことも課題として位置付けられました。このため政府は、幕府領・旗本領などの廃止と廃藩置県〔はいはんちけん〕を通して領主の土地所有を否定するとともに、近世後期には事実上実現していた農民の土地所有権・売買権を法的に認め、さらに全国の土地を調査し面積・所有者・地価を確定のうえ、地価に対して一定の比率の地租を徴収する制度の確立をめざします。

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地租改正の実施手順

 このように重要な意義を持つ改革であった地租改正は、具体的にはどのようにして実施されたのでしょうか。各段階において作成された史料に沿って、見てみることとしましょう。
 明治5年(1872)2月、政府は太政官〔だじょうかん〕布告をもって近世以来の田畑永代〔えいだい〕売買禁止を解き、さらに7月、全国の土地に対して地目〔ちもく〕(土地用途)・面積・所有者を記した地券を発行することを、大蔵省達をもって布達します。明治5年の干支〔えと〕にちなんで、「壬申〔じんしん〕地券」と呼称されたこの地券には地価の表示がなかったものの、地券発行により地租賦課〔ふか〕の対象者である土地所有者を確定した点に意義がありました。しかしながら、その発行は地租改正法施行後中断され、交付済み地券も改正後の新地券と引き替えに回収されたため、今日まで壬申地券が残っている例はほとんどありません。
 明治6年7月に入ると地租改正法が公布され、地租改正の作業が本格的に開始されます。その第一段階となる土地測量は、府県が町民・村民を指導して実施する形をとり、現尼崎市域においては明治7年6〜9月前後にほぼ完了したと考えられます。これにより町村ごとに「改正反別〔たんべつ〕取調帳」(史料1・2)が作成され、土地一筆(区画)ごとに地目・面積・所有者・図面・土地の等級などが記載されました。
 測量の結果、課税対象となる土地面積は、近世以来の旧反別に比して大幅に増大します。現市域においても、平均20%程度の増加が見られました。増税につながる農地の増反別には農民の激しい抵抗が予想されるため、検地(=測量)による増反別は旧領主制下にはほとんど実施されませんでした。地租改正時にこれを比較的順調に実施し得た背景には、農民の土地所有権を認めたうえで、農民による自主的な測量を県官が検査する方式をとったことがあったと考えられます。
 測量が完了すると、その結果にもとづき地価の算定が行なわれます。地租改正法とともに公布された「地方官心得書」は、地価算定について優先順に(1)競争による売買価格、(2)小作料から地租・村入費を差し引き算出した収益を地価(=資本)に対する利息収入と見なし、利率から逆に算定した額、(3)自作地における収穫から種子・肥料代、地租、村入費を差し引き算出した収益を地価に対する利息収入と見なし、利率から逆に算定した額、という3種類の基準を示しますが、現実の実施過程においては結果的に(3)が選択されます。その計算式は後掲のとおりであり、種子・肥料代、地租、村入費の比率はそれぞれ定率、利率は6%という基準を示して地方の実勢により調整、米価は各地方の相場平均によって定め、面積あたり収穫量は実情を調査して田畑ごとに等級を定めることとされました。
 これらの計算要素のうち、現実の地価算定に際して村々と府県の間でもっとも意見が対立したのが、面積あたり収穫量の等級設定でした。府県は、村々が等級を設定して地価・地租を計算した「地位等級取調帳」(史料3)を提出させます。しかしながら、村々の申告にもとづいた地租額は幕藩制下の旧貢租水準を大きく下回るものであったため、政府は明治8年7月に定めた「地租改正条例細目」において方針を転換し、広域的に定めた予定地租額を満たす地価・等級を区や村に対して設定し、それに応じた形での等級引き上げを村々に指示します。その地価額や面積あたり収穫量が実情とかけ離れており受け入れがたいとする多くの村々は、府県に対して地価減額の「嘆願〔たんがん〕書」(史料4)を提出して抵抗しますが、多くの場合その嘆願は聞き入れられず、府県は地価・地租が予定額に達するまで何回でも「地位等級取調帳」を再提出させました。
 こういった地価算定をめぐる対立から、全国的に激しい抵抗運動が起こります。明治9年末には茨城県や三重県において大規模な地租改正反対一揆が発生し、翌明治10年の西南戦争などこの前後の一連の不平士族による反乱と相まって、政権をゆるがす深刻な事態となりました。兵庫県においては、明治9年2月、県会(地方三新法〔さんしんぽう〕施行以前に県が独自に開設した地方民会)を臨時に開催するよう県会議員(区長)7人が要求し、これに応じて同月開かれた県会において、地価算定・地租賦課実施方法などへの反対が討議されます。
 全国的な抵抗を受けて、政府は地価の3%と定めた地租賦課率を明治10年1月の太政官布告により2.5%に減額。こうしたこともあって、地租をめぐる対立は徐々に収束に向かいます。府県の示す地価額に同意せざるを得なくなった村々は、その額に合わせた「地位等級取調帳」を提出してようやく県の承認を受け、続いて土地一筆ごとの面積・所有者・地価・地租額を記した「一筆限〔いっぴつかぎり〕取調帳」(史料5)を提出します。現市域においても、明治10年8月の生津〔なまづ〕村を最後に「一筆限取調帳」提出を終えたと考えられます。
 こうして明治6年の法公布から約5年をかけて実施されてきた地租改正は、ようやく完了することとなりました。これによって全国の土地の地租が定められ、一筆ごとに「改正地券」(史料6)が交付されました。

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(史料1)

「地租改正反別〔たんべつ〕取調帳」(地域研究史料館蔵)、大物〔だいもつ〕村のうち168番・字三反長〔さんたんさお〕の一筆〔いっぴつ〕分

 地目は田で、面積と所有者が記されています。図面上では、面積を計算するため区画が二つの三角形に分画され、寸法が書き込まれています。
 市域の村々に残る取調帳には、土地測量と同時に定められた田畑としての等級(上中下いずれか)が記されている例がめずらしくありませんが、この帳面の場合は等級は記載されていません。

(史料2)

同前、旧城郭〔じょうかく〕内のうち5番・字東三之丸の一筆分

 取調帳作成後に確定したと考えられる地価が記載されており、さらに赤字の後筆〔こうひつ〕により地目を「宅地」から「上畑」に変更のうえ、地価の修正額が書き込まれています。貼り紙上の地租額は地価の100分の2.5であり、明治10年の地租率引き下げ後に書き加えられたものであることがわかります。
 土地所有者の久保松照映は旧尼崎藩士であり、明治初年の藩制改革期には「権大属〔ごんのだいぞく〕」として藩の実務を担いました。「反別取調帳」によれば、旧城郭内東三之丸にこの土地を含めて四筆分を所有しています。(史料1・2は作成年不詳。表紙にはいずれも後筆 にて「明治十二年一月」とある)

(史料3)

明治8年10月下食満〔しもけま〕村「地位等級調帳」(地域研究史料館蔵、宇保〔うほ〕登氏文書)

 下食満村は村内の土地を田・畑・宅地などにわけ、等級ごとに面積、筆数(区画数)を調べ、地価・地租を算出して「地位等級調帳」を作成しました。末尾には戸長・副戸長などが連印しており、いったん兵庫県に提出したものの額が承認されず、返却された原本ではないかと考えられます。この取調帳と、同じ宇保登氏文書中の明治9年4月29日付け取調帳(控えまたは下書きと考えられる)に記された面積・地価・地租を比較すると、次のようになります。

明治八年一〇月付け 田畑宅地藪等合計
面積 二四町一反七畝〔せ〕一一歩〔ぶ〕
地価 一万六二一円七〇銭五厘八毛
地租 三一八円六五銭一厘二毛
明治九年四月二九日付け 田畑宅地合計(藪等除く)
面積 二三町三反七畝一七歩
地価 二万三三二円八三銭
地租 六〇九円九八銭六厘

 後者の文書に記された、下食満村田畑のうち田の地価額合計が、地租確定後の明治19年の文書に記された田の地価額よりやや低いもののほぼ同額であることから、下食満村の地価確定経過を次のように推定してみました。
 まず明治8年10月、村が算定した地価・地租額を記した取調帳を提出。しかしその額が県の予定額より低かったため承認されず、明治9年4月頃地価を2倍近くにまで増額して提出し直します。これによりようやく承認を得たか、あるいはさらに若干の増額をして決着することができたと考えられます。

 

〔「地方官心得書」が定める検査例(3)の計算式〕

A収穫=面積×面積あたり収穫量×米価(各地方ごとの明治3〜7年相場平均)
B収益=A収穫−種子・肥料代(収穫×0.15)−地租(地価×0.03)−村入費(地価×0.01)
C地価=B収益÷利率0.06(各地方の土地売買の実勢にあわせて調整)
    ↓
上記の考え方にもとづき実際に計算する際の簡便式
X(収益+地租+村入費)=A収穫−種子・肥料代(収穫×0.15)
Y地価=X÷0.1(利率0.06+地租0.03+村入費0.01)

(史料4)

明治8・9年「地租改正ニ付地位等級調直シイタダキ度嘆願」(地域研究史料館蔵、宇保登氏文書)

 (史料3)にあるように、下食満村が地価・地租を算定して明治8年10月に提出した 「地位等級調帳」に対して、兵庫県は地価額の増額を指示したものと考えられます。 これに対して下食満村は、県令や県地租改正掛に宛てて、明治8年12月、9年1月、同3月と たて続けに嘆願書を提出した模様です。

 

 それらにおいて下食満村は、同村が藻〔も〕川をはさむ対岸にも田畑を所持しているため 両岸別々の井〔ゆ〕掛り(農業用水の負担)が課せられるなど負担がかさむこと、 対岸の土地は低湿で耕作条件が悪く、米の品質・価格も低いこと、さらに堤防決壊による水害が多発するなど 難渋困窮〔こんきゅう〕している実情を訴えて、特に藻川対岸の土地等級見直し、地価・地租低減を繰り返し嘆願しています。
 しかしながら(史料3)の解説でふれたように、その願いが聞き入れられることはなく、 地価・地租の大幅な増額を余儀なくされる結果となりました。

(史料5)

明治9年11月東武庫村「地租改正一筆限帳」(地域研究史料館蔵、東武庫部落有文書)

(史料6)

明治10年12月25日発行「地券」(地域研究史料館蔵、宇保登氏文書)
 

 

 紆余曲折〔うよきょくせつ〕を経てようやく地価・地租が確定。宇保与左衛門が所有する下食満村119番、字〔あざ〕大嶋の田5畝3歩にも地券が交付されました。
 地価に加えて、3%の地租額および、明治10年改定による2.5%の地租額が記載されています。

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地租改正の歴史的意義

 地租改正の結果、明治政府は旧幕藩体制下の貢租収入に匹敵する安定した財源を確保することができました。明治初期においては政府歳入の大部分を地租に依存しており、その後も明治期を通して主要財源のひとつでしたが、やがて所得税や営業税の歳入に占める比率が増し、相対的な重要性が低下していきます。数度にわたる制度的変遷ののち、地租は昭和25年(1950)に廃止されます。
 一方、地租の最大の負担者である農民は、明治維新による領主制支配からの解放という期待とは裏腹に、近世と同様の重い貢租に苦しめられることとなります。このことが、近世においてすでに進行していた小作農化、地主への土地集積をさらに促進し、近代地主制の成立へとつながりました。また自由民権運動においては、重い地租負担の軽減が、主要要求項目のひとつとなりました。

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