近代編第4節/十五年戦争下の尼崎1/昭和恐慌下の尼崎−工業化の明暗とモダニズム−(佐賀朝)




 満州〔まんしゅう〕事変が始まる昭和6年(1931)前後は、昭和恐慌〔きょうこう〕によって社会不安が増大する一方で、都市部を中心にモダニズム文化が広がった時代でした。ここでは、恐慌とモダニズムの時代に、人々の暮らしを覆っていた光と影の部分を見ていくことにしましょう。

昭和恐慌下の農村部

 昭和5年1月、民政党・浜口雄幸〔おさち〕内閣は金輸出再解禁による国際的な金本位体制への復帰を断行し、通貨量を抑制して金準備と均衡〔きんこう〕させるために極端なデフレ政策を実行していきます。しかしながら、国内におけるデフレに加えて、ちょうどこの時期、世界恐慌の影響が日本経済に及んだ結果、昭和恐慌という不況のどん底に陥〔おちい〕ってしまいます。
 恐慌の影響は、農村部において特に深刻でした。農産物価格の暴落のため、尼崎地域の農業生産額は昭和5年、6年と続けて大きく落ち込みます。一例をあげると、尼崎市内の米穀生産額は、昭和4年から6年にかけて約4分の1に急減し、作付面積や収穫高も大きく減少しています。農業恐慌のもと、以前から進行していた農地の宅地化・工業用地化が加速度的にすすんだ結果、尼崎市の耕地面積は5年の224町から10年には88.4町と6割も減少し、農家戸数も260戸から120戸へとやはり激減しました。工業化や都市化の圧力が強かった現尼崎市域のなかでも、特に尼崎市をはじめとする南部において、恐慌の影響が土地売却の進展や離農者の増加となって表れました。
 恐慌の影響は、地主・小作関係にも及びました。尼崎地域全体の耕地面積と農家戸数が減少するなか、経営(耕作)規模の零細化と小作地率の増大傾向が表れ、中・下層農家の経営低迷、最下層部分の離農と賃労働者化という農民層分解がすすみます。こういった傾向は、南部の尼崎市や小田村・大庄〔おおしょう〕村、北部では立花村において、より顕著でした。こうして尼崎地域の農業は、この時期全般的に衰退傾向を強めたと言えます。

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工業部門への影響

 恐慌の影響は工業部門にも及びました。尼崎市と小田村の工業生産額は、昭和2年の金融恐慌により落ち込んだのち、回復途上にあったものが、昭和5年から6年にかけてふたたび減少します。ただしその減少比率は、昭和4年と6年の工業生産額を比較すると、尼崎市において約3割、小田村では約2割と、農業に比べればゆるやかなものでした。
 この時期の工業部門における変化のもうひとつの特徴として、尼崎市内工場における合理化の進展があげられます。現市域のうち、尼崎市に次いで工業化がすすんでいた小田村・大庄村・園田村においては、工場数・労働者数ともおおむね増加傾向にあったのに対して、尼崎市では工場数に大きな変化がなく、職工5人以上の工場の労働者数が昭和4年の8,381人から、7年には4,911人と激減。不況のなか人員削減と合理化がすすめられたもので、分野別では市の工業を代表する紡織や金属における大幅減が確認できます。
 尼崎市の工業生産は、昭和6年の満州事変ののち比較的順調に回復に向かいますが、その下地は恐慌期の厳しい合理化によってつくられたものと考えられます。

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失業問題と社会事業

 恐慌にともなう人員削減や工場閉鎖、雇用状況の全般的な悪化が進行するなか、失業者が増加し、労働者・俸給〔ほうきゅう〕生活者層の生活不安が深刻化していきます。これに対応した行政による失業救済事業として、尼崎市が昭和6年8月から8年5月にかけて神崎浄水場増設工事を実施したほか、兵庫県も6年12月から8年7月にかけて、尼崎・伊丹間の県道改良工事を実施しました(通称・産業道路)。


東海道線を超える産業道路を北東より望む(昭和8年、三宅好雄氏提供写真)

 それと同時に尼崎市は、大正期に開始した各種社会事業についても、施策拡充と多様化をはかります。まず昭和5年7月26日、労働者のための簡易宿泊所として尼崎市民館を中在家〔なかざいけ〕町に開館。さらに昭和7年2月1日には、市方面委員会の事業として東難波〔なにわ〕の市設住宅に尼崎養老院を開設。同年5月2日には、南城内の市役所に隣接して市営公益質舗を開業し、市民に対する低利融資を開始。この公益質舗は、のちに杭瀬(昭和13年)と大庄(同20年)にも開設されました。一方、大正10年(1921)に旧城郭〔じょうかく〕内に設置されていた託児所を、昭和6年に南浜の旧町役場跡に新築移転して尼崎東愛育園としたのに加えて、東難波の市設住宅内に尼崎西愛育園を開設。さらに医療の分野では、小田村が開業医に委嘱する形で運営していた委託診療所を、昭和11年の尼崎市との合併後は市立委託診療所とします。また昭和14年10月27日には、県立尼崎保健所が南城内に設置されました。
 こうして昭和恐慌期以降、今日の福祉行政に通ずるところの、社会事業の原型が形づくられていきました。

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昭和戦前期の被差別部落

 都市化がすすむ一方で、昭和戦前期の被差別部落は厳しい差別にさらされ、劣悪な経済・生活環境のもとに置かれていました。市域の被差別部落では、明治40年代頃から青年会がつくられ部落改善に取り組んだほか、郡による教育・衛生・勧業等の事業もすすめられます。大正11年に被差別部落民による解放運動組織「全国水平社」が結成されると、これに対抗して政府は融和団体を組織し、部落外との融和施策の推進をはかっていきます。これを受けて兵庫県では大正12年7月に融和団体「兵庫県清和会」が結成されます。昭和2年6月17日には同武庫郡支部結成。川辺郡支部も昭和4年までに組織されます。
 こうして、現市域の被差別部落においても、青年会場や共同浴場の設置、下水道の改修、就学・就業援助、各種講習・講演会開催などの事業が実施されていきますが、劣悪な生活環境の抜本的改善や、部落差別の解消にはほど遠いのが実情でした。この当時の被差別部落では、小作や農家副業的な藁〔わら〕仕事に加えて、下駄〔げた〕直しや駅仲仕〔なかし〕の荷役仕事など、多様な日雇い仕事に従事することでかろうじて生計を支えている場合が多く、総じて生活は不安定で苦しいものでした。工場労働に従事する場合は、村ごとに特定企業の特定業種に勤務する実態があり、そこにおいても一般工員とは異なるある種の差別的雇用となっていたものと考えられます。

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沖縄、朝鮮半島からの来住者

 工業化がすすむ尼崎地域には、西日本を中心に各地から労働者が仕事を求めて移り住み、生活の場を形成していきました。沖縄や朝鮮半島からの来住者も多く、当時これらの人々は就職や居住の面で差別されていたことと、親戚・知人などの同郷者を頼って来住する場合がほとんどであったことから、特定の地域に集住する傾向が強く見られました。
 こういった集住地が、被差別部落やその周辺であるケースもありました。本節1コラム「在日朝鮮人」に紹介しているように、朝鮮人が多く住んだ守部〔もりべ〕の被差別部落周辺には、沖縄出身者も多く、昭和13年の「武庫村事務報告」によれば、同地区の人口構成は朝鮮人2,612人、沖縄出身者148人、もとからの居住者をはじめとする「内地人」986人となっており、いかに外来者が多かったかがわかります。武庫川改修工事をはじめとする土木工事に従事し、あるいは河川敷にバラックを建てて廃品回収などを始めた外来者に対して、長屋を建てて貸すことは村にとって家賃や日用品販売などの収入確保につながったうえ、農業用の下肥〔しもごえ〕を長屋から汲〔く〕み取ることもできました。同時に新たな住民たちは、農繁期の日雇い労働力ともなりました。

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沖縄出身者の集住地

 関西地域に来住する沖縄出身者が増加するのは、第一次世界大戦後のことです。戦後不況のもと、沖縄では空腹から有毒のソテツを毒の抜ける前に食べてしまうという「ソテツ地獄」と呼ばれる厳しい状況が生まれ、大正後期以降、沖縄から大阪や神戸、阪神間に多くの人々が移り住みました。
  現尼崎市域に、沖縄出身者の集住地が形成されるのは、大阪などより遅く、昭和5、6年の昭和恐慌の頃でした。昭和10年代における代表的な集住地は、武庫村守部、大庄村浜田、園田村戸ノ内の3地区であり、それぞれの地区ごとに同郷団体も組織されていました。
 このうち、戸ノ内地区を例にとると、昭和5、6年頃に大阪市西成〔にしなり〕区の沖縄出身者が養鶏場の敷地を求めて戸ノ内の河川敷に移り住んだことや、西淀川区の福崎で「素灰〔そばい〕」(練炭の材料)や「から消し」(消し炭)を作っていた沖縄出身者が周囲の苦情から戸ノ内の三角州先端に来たのがきっかけと言われています。やがて、これらの産業を中心に集落が形成され、昭和10年代に入ると会社・工場勤めや商業など、職業面でも多様化が見られるようになったということです。
〔参考文献〕『尼崎部落解放史』本編、史料編1・2(同編纂委員会編、社団法人尼崎同和問題啓発促進協会、昭和63・平成2・平成5年)、『ここに榕樹あり/沖縄県人会兵庫県本部35年史』(沖縄県人会兵庫県本部編、昭和57年)、『近代日本社会と「沖縄人」』(冨山一郎著、日本経済評論社、平成2年)

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 大正期から昭和初期にかけて、生活の近代化や西洋文化の浸透などが相まって、モダニズムと呼ばれる生活文化全般の変化が訪れました。尼崎を含む阪神間も、モダニズム文化が花開いた地域のひとつでした。
 ここでは、モダニズムが流行した時代に隆盛をきわめた商店街とダンスホールを通して、尼崎地域の人々を取り巻く時代の空気にふれてみたいと思います。

杭瀬商店街

 昭和初期は、不況による生活苦にあえぐ人々が少なくなかった一方で、近代的な消費生活が広がっていった時代でもありました。この消費需要を支える新たな商店街も、徐々に形成されていきます。
 そういった新興商店街のひとつが杭瀬商店街でした。杭瀬旧集落の北方に阪神国道(現国道2号)が昭和元年に開通すると、国道と交差して南北に伸びる杭瀬本通り、国道と平行に東西を走る都通り、昭和通りといったいくつかの通りからなる商店街が形成されていきます。周辺には杭瀬・梶ヶ島・今福の旧集落に加えて、大正期設立の大阪合同紡績神崎工場(昭和6年には企業合併により東洋紡となる)をはじめとする大小の工場が立地しており、従業員や社宅住まいの家族などもまた、商店街の顧客となったと考えられます。
 少し時代がくだりますが、昭和13〜14年の本町〔ほんまち〕通り商店街と杭瀬商店街を関西大学が調査した結果が、「衛星都市商店街の構成と動向」(加藤金次郎)と題して尼崎商工共和会発行『商工大尼崎』9〜11号(昭和15年2〜4月)に掲載されています。それによれば、杭瀬の店舗は本町通りと同じく従業員2〜3人規模がもっとも多く、食料品や雑貨などの日用品が大きな比重を占めており、衣料品や家具などは大阪市中の百貨店などの商圏となっていると指摘されています。また自転車は平均1店1台以上普及しているが自動車所有は0軒。電話普及率は約3割。4軒に1軒は外売りや御用聞きも行なっており、店員養成の多くは少年期からの奉公であることなどが記されています。
 一方、下に掲載したのは、コープこうべ生活文化センターが所蔵する杭瀬商店街の宣伝すごろくです。各店舗の宣伝文句まで記しためずらしいもので、業種や商品名まで具体的に知ることができます。女性はすべて和装でBとIでは当時流行の髪型「耳かくし」をしていることや、洋食屋やカフェーといった店があることなどに、この時代の雰囲気を感じ取ることができます。印刷された電話番号などから、このすごろくは昭和4〜7年の間に作成されたものと考えられます。


「杭瀬有名商店すごろく」(コープこうべ生活文化センター蔵)

〔参考文献〕
小岩眞実子・瓜田美雪「杭瀬有名商店双六−調査と解読」(『地域史研究』30−3、平成13年3月)

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ダンスホール

 本編第3節6に紹介したように、小田村から尼崎市域にかけての阪神国道沿いには、大阪府の営業規制を避けてダンスホールが進出していました。昭和5年頃には杭瀬の杭瀬ホール(昭和8年ダンスタイガーと改称)、東長洲〔ながす〕のダンスパレス、大物〔だいもつ〕北口のキングダンスホール、玉江橋の尼崎ダンスホールと4ホールが営業しており、大阪からタクシーを飛ばして、あるいは電車に乗ってダンスファンが訪れました。
 これらのホールは、男性客がチケットを買って、バンドの演奏をバックに女性ダンサーと踊るという営業形態で、飲食は禁止されていました。各ホールとも50〜80人ものダンサーを擁しており、このうち尼崎ダンスホールの49人を対象に昭和7年に実施された生活実情調査が、昭和8年9〜11月の『社会事業研究』(大阪府社会事業協会)に掲載されています。それによれば、ダンサーの年齢は20代前半がもっとも多く、居住地は大阪市内と尼崎市および周辺がおよそ半数ずつ。志望動機は経済的理由が半数近くを占め、売り上げはホール6・ダンサー4の割合で分配されました。
 昭和5〜7年の平均月収は約100円と大規模工場の中堅労働者クラスの収入でしたが、300円台から50円未満とかなりばらつきがあり、昭和6、7年頃には待遇をめぐる労働争議も見られました。やがて戦時体制が深まるなか、昭和15年に出された奢侈〔しゃし〕品等製造販売制限規則(7.7禁令)により、すべてのダンスホールが閉鎖されることになりました。
〔参考文献〕東郷実「ダンサーの生活実情調査−戦前の尼崎における−」(『地域史研究』5−3、昭和51年3月)、『社交ダンスと日本人』(永井良和著、晶文社、平成3年)

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『ダンス時代』

 尼崎にあったダンス時代社が発行していた雑誌です。社交ダンスについての論説や情報記事に加えて、尼崎をはじめ各地のホール、ダンサーやバンドを紹介する広告などが豊富に掲載されており、当時の様子をうかがい知ることができます。
 「ダンスホールは踊りの研究所でもなく、教場でもなく、一日の労苦の慰安の場所であり、何事も忘れて気分の向くまゝに音楽のリズムにのつて、思う存分個性を発揮して踊ればいゝのです」(ダンスパレス経営者・吉田貞一の文章より、昭和8年11月、第2巻第3号掲載)


キングダンスホールのダンサー(昭和9年6月、第2巻第9号表紙)


尼崎ダンスホールの広告(昭和9年4月、第2巻第7号掲載)


ダンスパレス(昭和8年10月、第2巻第1号掲載)

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