近代編第2節/尼崎の町と村1/明治10年代の経済変動(山崎隆三・地域研究史料館)




 維新期に続く明治10年代、本格的な近代化、資本主義化に向けた準備期間とも言えるこの時期、インフレからデフレへという激しい経済変動が社会を襲います。それによって、尼崎の町や村はどのように変化したのでしょうか。

大隈積極財政から松方デフレへ

 明治維新政府の財政基盤を築く重要な改革であるところの、地租改正の作業が始まった明治6年(1873)、佐賀藩出身の大隈重信が大蔵卿に就任します。これより明治13年2月までの間、大隈は大蔵卿として国家財政政策に実権をふるいました。その政策基調は、地租改正による財政基盤の確保、近代的貨幣・金融制度の確立に加えて、政府の積極的な資金供給による殖産興業〔しょくさんこうぎょう〕を重視するものでした。このため大隈財政期の政府は内国債を発行して資金調達に努めるとともに、金準備の裏付けを越える量の紙幣発行に踏み切ります。さらに、明治10年に西郷隆盛ら鹿児島県士族が起こした西南戦争に対処するための軍事支出がかさみ、明治10年以降は国家財政の悪化と激しいインフレーションを招きます。
 これにより政府の財政政策は、国債・紙幣の整理・償還、緊縮財政への転換を余儀なくされます。加えて、折しも全国的な盛り上がりを見せていた自由民権運動・国会開設要求への対処などをめぐって政府内に対立が生じ、明治14年10月、自由民権運動に理解を示す大隈は政府から追放されます。
 この明治14年の政変の結果、新たに大蔵卿に就任した薩摩閥の松方正義〔まさよし〕は、大隈が着手しようとしていた紙幣整理を引き継ぎ徹底的に断行します。過剰供給となった紙幣の回収・消却と平行して正貨準備の蓄積に努め、金準備の裏付けにもとづく兌換〔だかん〕紙幣制度の確立をはかります。
 松方のとった厳しい緊縮財政政策に加えて、明治15年に欧米に起こった恐慌〔きょうこう〕が日本にも波及した結果、明治17年以降はインフレから一転して激しいデフレーションが発生します。しかもこの時期、朝鮮半島をめぐる清国との対立から、政府は対清戦争を想定して軍備拡張を推進します。その財源確保のための増税と、デフレ不況が相まって、町や村は大きな経済的苦境へと追いやられることになります。

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尼崎町の変化−士族の没落

 インフレからデフレへという明治10年代の経済変動は、手工業者や小商人、士族といった多くの尼崎町住民に、生活の困窮〔こんきゅう〕をもたらしました。インフレ期においては生活費が高騰〔こうとう〕し、デフレ不況下においては就業機会が減り収入が減少することになるからです。租税や土地の統計からは、明治10年代を通して地租納付者数や宅地所有者数の減少、1人あたり地租納付額の増大といった傾向が表れており、困窮した多くの住民が宅地を失い借家層に転落する一方で、一部の富裕層の土地所有が増加し、宅地地主化していることがわかります。
 この経済変動の結果、旧尼崎藩士族たちの大部分の経済的没落が決定的となりました。本編第1節2にふれたように、明治初年代の「秩禄〔ちつろく〕処分」により士族たちは旧藩時代の家禄数年分の公債ないしは現金を給され、その後はこの給付を元手に事業を起こすか、あるいはなんらかの職業について収入を確保し、生計をたてていかなければならなくなりました。明治10年代から20年代前半の尼崎町における公債所有者数を見ると、明治13年に221人、17年には201人であったのが、同年以降のデフレのなか急減し、23年にはわずか56人となっています。明治9年に金禄公債を給付された士族が241人であったことから、デフレ不況のなか彼らの多くは公債を売り払い、生活費に替えざるを得なかったものと推定されます。
 士族の一部は起業・経営に成功し、町の有力者として区長・戸長〔こちょう〕、町会議員や町長といった行政上の役職に就く者があったほか、県の官吏や軍人、教員などになった者もありました。尼崎藩士の姓名・家禄・身分・履歴などを記した「尼崎藩家中家禄連名録」(明治7年作成、尼崎市教育委員会蔵)から集計すると、尼崎藩士族780人のうち、明治初年から7年頃にかけて官職についた期間のある者は80人にのぼります。その内訳は、兵庫県官吏28人、他の政府機関9人、区・戸長7人、大阪鎮台〔ちんだい〕などにおける軍務36人となっています。県の官吏となった者の多くが警察関係であったほか、小学校教員や役場吏員になった者もあり、多くは薄給〔はっきゅう〕の最下級職であったと考えられます。
 このように、官職を得た者もその多くは決して経済的に優遇されていたわけではありませんが、さらに悲惨な貧困層への転落を余儀なくされた大多数の士族に比較すれば、まだ恵まれていたと言えます。明治12年の兵庫県による視察調査にもとづき作成された「士族就産状況視察復命書兵庫県」(大阪大学附属図書館所蔵、『尼崎市史』第7巻掲載)は、尼崎藩士族の多くが廃藩後極度の貧困に陥〔おちい〕っており、起業しても失敗に終わるケースがほとんどであり、わずかにマッチ製造と活版印刷業が軌道に乗っていると報告しています。
 さらに明治17〜18年頃の兵庫県の調査によると、すでに尼崎町の士族戸数は372戸と廃藩時の半数以下に落ち込んでおり、残った戸数の68%にあたる252戸は失業・半失業状態にありました(太田陸郎「明治初年県下に於ける士族就産事業」『兵庫史談』4−3による)。尼崎町を離れた士族の多くも、貧困による生活苦から町外に職を求めて転出したものと考えられます。上段の「尼崎町の人口変遷〔へんせん〕」表によれば、明治5年から25年までの間に尼崎町の士族人口はほぼ半減しており、町人口全体もやや減少する結果となっています。
 収入を失った士族の多くは無職あるいは零細小売商・職工・職人・日雇いなどとなり、同じく明治10年代の経済変動に翻弄〔ほんろう〕された平民らとともに、尼崎町の都市雑業層・下層社会を形成していきます。これら下層町民の貧困と生活苦は尋常なものではなく、凶作による米価高騰のなか貧民救助が論じられた明治23年5月末〜6月初めの尼崎町会においては、町長や議員の口から、少なからぬ住民が飢餓〔きが〕線上にあり、街なかを徘徊〔はいかい〕して草を食べるような惨状であると報告されています。

尼崎町の人口変遷
族 籍
明治5年
明治25年
士 族
1,634
1,580
3,214
904
809
1,713
平 民
5,968
6,121
12,089
5,873
5,954
11,827
7,602
7,701
15,303
6,777
6,763
13,540

『尼崎市史』第3巻より。明治5年、25年とも町村制による尼崎町全域に関する数値。


尼崎旧城下町部分の拡大図
(大日本帝国参謀本部陸軍部測量局明治18年測量2万分の1仮製地形図「尼崎」より)
 一見、江戸時代と変わらぬたたずまいを見せる旧城下町ですが、すでに城はなく、濠〔ほり〕も一部埋め立てが始まっています。
 こののち工業化・都市化がすすむにつれて、尼崎町は大きな変貌〔へんぼう〕を遂〔と〕げていくこととなります。

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土地を失う農民−地主制の成立

 経済変動が階層分化をもたらしたという点では、農村部も同様でした。現尼崎市域や周辺における農産物価格や農業賃金は、明治13〜14年頃をピークに急上昇と急下落を示します。インフレによる農産物価格上昇は、農業経営規模が比較的大きく収穫物販売余力を持つ中層以上の農家経営に有利となる一方で、飯米を購入しなければならない小作農・日雇いなど貧農層にとっては、逆に生活苦の原因となりました。
 これに続く明治14年以降のデフレによる農産物価格暴落は、農業収入の激減をもたらし、金額が固定されているためデフレ下においては相対的に重税となる地租負担と相まって、貧農層のみならず中層・上層農家経営に対しても大きな打撃を与えます。その結果、多くの農民が土地を手放さざるを得なくなり、次頁の グラフにあるように5反以上所有の中層・上層農家が減少、5反未満の零細自作・自小作農家や無所有の純小作農が増加します。
 未だ都市部における商工業の発達が限られており、これら貧農層も村を離れて他に就業機会を得ることがむずかしく、小作化して村に滞留〔たいりゅう〕していきます。その一方で、土地所有は少数の最上層農民や商業資本・高利貸資本に集中し、これら地主が経営規模を大幅に拡大して小作経営を展開していきます。都市の商人などが、在村する上層農民を名代人〔みょうだいにん〕として小作経営を管理させる、いわゆる不在地主も出現し、急速にその所有地と経営規模を増大させました。『尼崎市史』第3巻編さん時に実施された本庁・小田・園田の3地区土地所有調査によれば、明治21年の段階で尼崎町・大阪市街・伊丹町在住の不在地主が、3地区の1町40村のうち1町36村に所有地を有しており、その合計は359町余り、3地区の耕地・宅地合計1,640町の約22%を占めていました。尼崎町・大阪市街・伊丹町以外に在住する不在地主の所有地を加えるとその比率はさらに増し、3地区内における不在地主所有地率は実に28%に達していました。
 こうして明治10年代の経済変動は、明治〜昭和戦前期の日本農村社会を特徴付けるところの、地主制を産み出す最大の要因となりました。

〔注〕
1) 土地所有戸数については各村の土地台帳による。
2) 無所有戸数については戸数調査資料による総戸数より土地所有戸数を差し引いて算出。
3) 善法寺・下坂部〔しもさかべ〕・潮江・額田〔ぬかた〕・神崎・常光寺・梶ヶ島・西長洲〔ながす〕(以上小田地区)、猪名寺・椎堂〔しどう〕・穴太〔あのう〕・法界寺〔ほうかいじ〕・岡院〔ごいん〕・上坂部〔かみさかべ〕(以上園田地区)、西昆陽〔にしこや〕・常松〔つねまつ〕・常吉〔つねよし〕・友行・生津〔なまづ〕・東武庫(以上武庫地区)の計20か村を対象とした。

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地主・資産家層の形成

 明治10年代の経済変動は、町や村の住民に生活苦を強いる一方で、その対局に土地や資本を集積する地主・資産家層を産み出しました。尼崎藩士族においても、その多くが没落する一方で、資本家として尼崎紡績設立に加わった平林昌伴や村松秀致、川辺馬車鉄道社長や初代尼崎町長を務めた伊達〔だて〕尊親、マッチ製造業を立ち上げ成功させた小森純一・小島〔おじま〕廉平といった人々がありました。
 さらに次の一覧表にあるように、商業活動を背景とする地主・資産家層が形成され、明治20代以降に本格化する尼崎における資本主義経済の発展と、尼崎町政を担っていくことになります。

尼崎町における地主・資産家層の一例(『尼崎市史』第3巻より)
氏名
市街地の宅地所有 3地区内の耕・宅地所有
営業
設立発起人・社長・重役・大株主として関係した会社
 
   
本咲 利一郎
4,216
8,909
  尼崎紡績・尼崎銀行
三浦 市三郎
2,110
1,754
醤油醸造 尼崎銀行・旭合資
秋岡 治郎作
1,828
1,252
酒造  
奥野 庄七
1,463
肥料商  
山口 作五郎
1,347
米商・精米所  
奥田 吉右衛門
1,344
183
魚問屋 尼崎紡績・尼崎共立銀行
梶 源左衛門
1,337
527
質商・肥料商 尼崎紡績・尼崎共立銀行・三収組
寺岡 五郎平
1,154
肥料商・醤油醸造 尼崎紡績・尼崎銀行・旭合資
井沢 忠平
1,152
652
醤油醸造 尼崎紡績
川口 平三郎
1,124
278
肥料商 尼崎紡績・尼崎貯蓄銀行・尼崎銀行・旭合資
松本 仁平
1,121
38
   
高岡 嘉一郎
1,084
   
大塚 茂十郎
1,061
312
醤油醸造 尼崎紡績・尼崎銀行・尼崎挽材・旭合資
松川 常七
1,047
1,067
荒物商  
小野 六右衛門
1,033
   
秋岡 利七郎
1,003
   
渡辺 源三郎
985
359
  尼崎共立銀行
亀井 吟平
970
1,121
  尼崎紡績
田中 七平
963
96
酒造・酒菰〔こも〕商 尼崎紡績・旭合資・尼崎銀行
高岡 利右衛門
914
100
醤油醸造 旭合資
祐野 平三郎
660
3,104
   
三浦 長平
390
876
質商 尼崎紡績
渋谷 佐平
330
459
  尼崎銀行・尼崎共立銀行
中村 七郎平
210
806
  尼崎銀行
樫本 武平
627
  尼崎共立銀行
中塚 弥平
294
綿花・綿糸商 尼崎紡績・尼崎銀行・旭合資

〔注〕
1)耕・宅地所有は、明治21年の市域東部3地区土地所有調査による。したがって本庁・小田・園田の3地区にかぎる。
2)営業は『川辺郡誌』その他、関係会社は考課状その他による。

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明治初期の灯台技術者・中澤孝政

 元尼崎藩士のなかには近代化を担う人材として、全国レベルで活躍する者もありました。そんなひとりに、日本の灯台草創期を担った技術者・中澤孝政〔たかまさ〕がいます。
 中澤久次郎孝政は、尼崎藩士・中澤家の長男として、天保4年(1833)10月26日に生まれました。岡本村(現神戸市東灘区、尼崎藩領)の井上弘太郎氏文書のうち慶応元年(1865)「土方職請負人、冥加〔みょうが〕役勤度〔つとめたき〕願連印帳」には、孝政の肩書きが「黒鍬棟梁〔くろくわとうりょう〕取締方」と記されています。黒鍬とは土木普請〔ふしん〕などに携わる職人を意味しており、孝政は土木技術者として藩内に特別な位置を占めたと考えられます。
 明治元年4月、孝政は、諸藩士や一般人のうち有能な者を政府に出仕させる「徴士〔ちょうし〕」に選ばれ、その土木技術を活かして灯台建設に携わることになります。この当時、お雇い外国人の指導のもと、日本各地で洋式灯台建設がすすめられており、その指導者の筆頭が「日本の灯台の父」と呼ばれたイギリス人技師、リチャード・ヘンリー・ブラントンでした。孝政は明治3年に大隅〔おおすみ〕(鹿児島県)の佐多岬灯台、4年には伊豆の神子元島〔みこもとじま〕灯台、伊予(愛媛県)の釣島灯台と、いずれもブラントンが設計した灯台建設の現場を預り、日本の灯台史に残る難工事の数々をやりとげます。やがて明治5年には工部省灯台寮八等出仕となり、日本人技師の首席の地位を占めるにいたります。
 八等出仕となった孝政は、房総の犬吠埼〔いぬぼうさき〕灯台(現千葉県銚子市)の工事を担当することになりました。犬吠埼一帯は海の難所として知られており海難事故も多く、灯台建設は急務でした。明治5年9月28日に着工したこの工事に際し、イギリスからの輸入煉瓦〔れんが〕使用を命ずるブラントンに対して、孝政は国産品による建設を主張して譲らず、国産煉瓦の改良に努めた結果、ついにブラントンにその使用を認めさせます。こうして19万個以上の煉瓦を使用した犬吠埼灯台は、日本初の国産煉瓦による灯台として明治7年11月15日に完成。今日まで日本を代表する灯台のひとつとしてその美しい姿を見せており、建築文化財としても高く評価されています。
 その後、明治14年7月まで工部省にあった孝政は、退職後大阪や九州において建設会社を経営し、明治21年には川辺馬車鉄道発起人13人に名を連ねるなど、故郷尼崎との関わりも持ち続けました。


犬吠埼灯台(平成16年3月撮影、犬吠埼ブラントン会提供写真)

〔参考文献〕
中島耕二「中澤孝政と洋式燈台」(『地域史研究』20−3、平成3年3月)


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