近代編第3節/工業都市尼崎の形成3コラム/移りゆく尼崎の原風景−小西乙次氏撮影写真より−(島田克彦)

 小西乙次〔こにしおとじ〕さんは明治34年(1901)、旧尼崎城下の中在家〔なかざいけ〕町に生まれました。やがて大正期、都市化・工業化がすすむなか、尼崎地域は大きな変貌〔へんぼう〕を遂〔と〕げていきます。その様子を目〔ま〕のあたりにした小西さんは、失われつつある光景を写真に残すことを思い立ちました。この当時、高価なカメラを個人で持つ人はまれでしたが、知人からアメリカ製のカメラを借り受け、大正10年(1921)頃から撮影を始めました。
 このコラムでは、そんな小西さんが残されたフィルムに写る、大正期から昭和初期にかけての移りゆく尼崎の原風景をご紹介します。


 築堤上から見た東海道本線神崎駅(現JR尼崎駅)。東海道本線と福知山線尼崎支線の立体交差は、阪鶴〔はんかく〕鉄道が国有化されて福知山線となる以前の明治38年頃の完成と思われます。築堤に設置された駅は「どてかん」(土手の神崎駅)として親しまれました。大正15年頃撮影。


 藻〔も〕川と猪名川の合流地点付近で、水遊びに興じる人々。市営水道の水源地は当初この付近に建設され、昭和3年(1928)まで使用されました。大正12年頃撮影。


 寺町・善通寺〔ぜんつうじ〕門前の静かなたたずまい。大正12年頃撮影。


 大物〔だいもつ〕川に架かる北大物橋と周囲の景観。昭和5年頃撮影。


 中在家町浜西3丁目のだんじり。貴布禰〔きふね〕神社の夏祭りの際、曳〔ひ〕いている様子を写したものではないかと考えられます。昭和4〜5年頃撮影。


 新城屋新田から見た初島の工場の景観。水面は左門殿〔さもんど〕川、中央は日本麦酒鉱泉尼崎工場、左奥に見えるのは東亜セメント。大正後期頃撮影。


 庄下〔しょうげ〕川河口付近の干潟〔ひがた〕で、潮干狩りを楽しむ人々。かつて尼崎地域の海岸部ではアサリやハマグリが採れ、「マテ貝とり」や「鰈〔かれい〕踏み」が子供たちの楽しみのひとつでした。やがて昭和4年に設立された尼崎築港株式会社による築港開発がすすむなか、干潟は消滅していきました。大正12年頃撮影。

小西乙次氏撮影写真

 小西さんが撮影された貴重な写真の数々は、地域研究史料館に一括して寄贈されています。史料館ではこういった写真コレクションを大切に保存するとともに、広く閲覧利用に供しており、市民の皆さんによる調査研究や出版事業などに活用されています。

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