近代編第1節/尼崎の明治維新2コラム/尼崎城の廃城(山崎隆三・地域研究史料館)




明治初年、廃城直前の尼崎城
(地域研究史料館蔵、ガラス乾板写真)
 尼崎城本丸を南東より望む。正面手前に見えるのが武具櫓〔ぶぐやぐら〕、右手奥の松の影になっているのが天守。

維新政府による廃城命令

 廃藩置県〔はいはんちけん〕直後の明治4年(1871)8月、政府は全国の城郭を兵部省〔ひょうぶしょう〕の管理下に移します。明治6年1月、兵部省から管理を引き継いだ陸軍省が必要とする施設を除き、すべての城郭を大蔵省に移管したうえで処分する方針が示されます。大蔵省は府県に各城郭の図面や代価などを報告させたうえで廃城とし、付属地ともども払い下げていきます。

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転用された尼崎城の施設

 尼崎城の場合も廃城が決まって間もなく取り壊され、跡地の大部分や建物・部材などは民間に払い下げられました。昭和5年に市が刊行した『尼崎志』によれば、城主松平家の菩提寺深正院〔じんしょういん〕が本丸御殿の「金の間」を買い取り明治7年7月に移転改築して本堂としています。この本堂は残念ながら昭和20年の戦災により焼失し、目にすることはできませんが、ほかにも藩領の旧家などには御殿の一部を移築した、あるいは部材を引き取り転用したという話が伝えられており、現存する家屋もあります。
 また明治12年に尼崎町費と町民有志の寄付により尼崎港が修築された際には、本丸石垣900余坪が無償で払い下げられ、防波堤の石材として利用されました。

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尼崎城の遺構

 建物撤去に続いて、濠〔ほり〕も徐々に埋め立てられていきます。明治半ばまでに二の丸西側と松の丸東側の一部が埋め立てられ、続いて明治後半には北側外濠が六島新田として宅地開発されます。さらに大正7年(1918)から15年にかけて、尼崎市が国から内濠の払い下げを受けて埋め立て、市庁舎・学校用地などに利用していきます。本丸部分には明治26年に小学校が設置され、のちに南半分を占める城内小学校(現明城小)となったほか、大正2年には高等女学校が北側部分に開設され、その後市立尼崎高等学校、さらには城内中学校となりました。高等女学校敷地内に残っていた天守山は、鉄筋校舎建設のため昭和6年に敷地北東隅に移築され、その築山も昭和30年代後半には姿を消しました。
 こうして尼崎城は失われ、わずかに城内という地名や明城小南側・櫻井神社境内などに立つ旧城橋脚の柱石を利用した石碑、同じく櫻井神社境内にある瓦などにその名残りを残しています。また旧城地における現中央図書館建設工事や震災復興工事などに際しては、城の遺構や生活用具などの遺物が出土しています。


大正5年頃の城内、第一尋常小学校(現明城小)と濠
(「御大典紀念献上 尼崎市写真帖」より)

尼崎城天守の棟板瓦と伝えられる大瓦


 縦90cm、横幅75cm、厚さ17cm。藩主松平家代々を祭る櫻井神社境内に一対がのこる。
  同社境内には、旧城の濠にかかっていた橋の石柱を利用した石碑も建てられており、松平家3代目藩主忠告〔ただつぐ〕(俳号・一櫻井亀文〔いちおうせいきぶん〕)の句が刻まれています。

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