近代編第3節/工業都市尼崎の形成5/民衆の台頭と人権・デモクラシー(島田克彦)




尼崎の米騒動

 第一次世界大戦期の好景気とインフレは、諸物価の上昇をもたらします。とりわけ、大正7年(1918)に入っての米価の高騰〔こうとう〕は著しく、庶民生活を直撃しました。当時西長洲〔ながす〕に住んでいた中矢稔〔なかやみのる〕さんは、後年「自分の日給は七二銭位であった。米が一升二二銭から五八銭位まではね上がったのも此の時である」と回想しています(地域研究史料館蔵「中矢稔氏大正時代回想ノート」より)。
 こうしたなか、民衆が全国各地で米穀商などを襲った「米騒動」が発生しました。大正7年7月下旬に富山県で始まった騒動は、やがて全国に飛び火し、8月上旬には京阪神に波及します。不穏な空気のなか尼崎市は、神戸の鈴木商店から低価格の外国米を仕入れて、販売する準備をすすめます。当初は14日販売開始の予定でしたが、10日から13日にかけて大阪や神戸で騒動が起こり市内情勢も危険となったため、13日午後3時から第一尋常小学校などで販売を始めました。
 しかしその13日の夜、築地町を発端に市内各所で群衆が米穀商を襲い、廉売〔れんばい〕を強要し家屋を破壊するという事態が発生します。隣接する小田村においても、常光寺や長洲で米穀商や農家が襲撃されます。かつてない事態に人心の不安は高まり、警察に加えて在郷軍人会や消防組・青年会などが警戒にあたりました。
 翌14日、市は米穀商や町総代に働きかけて米を買い集め、廉売を準備するとともに、県知事を通じて軍の出動を要請します。夜に入るとふたたび群衆が市内各所の酒屋を襲撃。深夜になってようやく工兵第4大隊(高槻)からの部隊と歩兵第70連隊(篠山〔ささやま〕)の先遣隊〔せんけんたい〕が尼崎に到着し、翌早朝には歩兵第70連隊からの本隊が到着して工兵第4大隊と警備を交替。こうして15日、市内は平穏を取り戻しました。
 尼崎市や小田村の騒動に加わったとして、警察は380人を検挙し、73人が起訴され懲役や罰金の判決を受けました。起訴された人々の多くは、工場労働者や仲仕〔なかし〕・土方といった力役ないし雑業に従事する日雇い労働者層であり、ほかに大工・桶職などの職人や小売り商人・農漁民も含まれていました。工場労働者のなかには、旭硝子〔ガラス〕(尼崎市新城屋新田)や乾〔いぬい〕鉄線(大庄〔おおしょう〕村道意〔どい〕新田)といった大規模ないし中程度の規模の工場に働く者もありました。また小田村の騒擾〔そうじょう〕においては、土木請負業者が配下の者と共謀して労働者を扇動〔せんどう〕し、騒ぎに加わらせたとして罪に問われています。

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民衆の台頭

 米騒動は米価の値上がりを直接のきっかけとする事件でしたが、その背景には第一次大戦期における社会の大きな変化がありました。明治後期以降、尼崎市や小田村には多くの労働人口が流入します。大正中期には職業構成の主要部分を工場労働者が占めるようになり、住宅難や環境の悪化といった工業化にともなう社会的な問題が集積していきます。その一方で、一部の企業は大戦をきっかけに好景気となり、しかも労働強化をてこに高収益を実現していました。
 このように尼崎地域では、大戦景気のもとさまざまな社会問題が深刻化していきます。諸物価の高騰が労働者とその家族の生活を脅かした結果、下の表に見るように、大正4年以降、労働争議が徐々に増加していきます。労働者たちは生存権を訴え、経営側に対して組織的に抗議する動きを見せつつありました。
 こういった歴史的・社会的背景のもとで発生した米騒動は、工業化の過程で蓄積された社会の矛盾が、騒動という形で噴出した事件であり、その主役となったのは民衆でした。そして、米騒動は群衆による一過性の騒動に終わりますが、これをきっかけとして、組織的な社会運動が本格的に展開する時代が訪れます。
 そういう意味で米騒動は、民衆が台頭する時代の到来を象徴する事件であった、と言えるでしょう。

大戦期の尼崎市におけるおもな労働争議
大正4.
3.19
旭硝子職工70余人が工賃値下げに反発してストライキ。24日、調停条件を会社不履行のため争議再燃。
大正6.
5.9
小森燐寸〔マッチ〕第三工場で検査係の不公平を原因とする紛議発生。
大正6.
7.10
関西鉄工で職工30余人賃上げ要求スト、警察が介入し午後から就業。
大正7.
3.22
旭硝子職工560人が賃上げを要求、警察が乗り出し騒ぎおさまる。
大正7.
6.4
横田商会製鉄部職工40余人、賃金支払日を変更に反対してストライキ。
大正7.
8.7
市役所人夫が同盟して、平均63銭である日給の増額を要求。聞き入れられぬ場合の転職を決議。
米騒動発生以前のおもな争議を示した。
『尼崎の労働運動史年表』により作成。

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労働運動

 労働者の親睦〔しんぼく〕・修養団体として大正元年8月に東京で結成された「友愛会」は、大戦期に頻発〔ひんぱつ〕した労働争議への関与を深めつつ、地方組織の結成をすすめます。大正8年以降2度の改組・改称を経て、大正10年には「日本労働総同盟」(略称・総同盟)と改称。労働組合運動の全国組織としての性格を、明確にしていきます。
 尼崎市では大正5年から6年にかけて、尼崎紡績の男子労働者を中心に最初の友愛会支部が作られました。この支部組織はほどなく休止状態となったらしく、大正8年に至って大日本紡績(尼崎紡績が合併・改称)の男子労働者を中心に、尼崎支部が再結成されます。
 新たな尼崎支部には市内市庭〔いちにわ〕町で理髪店を営んでいた阪口萬太郎〔まんたろう〕が参加し、自宅兼店舗を事務所として提供しました。阪口は、「自分は労働者ではないから」という理由から、大正10年の東亜セメント争議後に組合を退いています。組合事務所当時の自宅を訪ねてきた若き日の六島誠之助〔せいのすけ〕と親交を結び、戦後は六島市政与党の民政会所属市会議員となっています。
 大戦期の好景気にかわって戦後恐慌〔きょうこう〕が始まると、企業は人員整理や合理化をすすめます。このため大正10年前後には、旭硝子、東亜セメント(尼崎市初島)、武川〔たけかわ〕ゴム(同竹谷〔たけや〕新田)、久保田鉄工所(同新城屋新田)、大日本木管(同大物〔だいもつ〕村)、リーバ・ブラザーズ(大庄〔おおしょう〕村又兵衛新田)といった工場で労働争議が相次ぎますが、そこでは解雇や労働条件悪化への反対とともに、横断的労働組合や団体交渉権の承認を経営側に要求するケースも少なくありませんでした。
 こうして高揚期を迎えた尼崎の労働運動でしたが、ふたつの大争議での敗北が転機をもたらします。まず大正10年、住友伸銅所尼崎工場(尼崎市新城屋新田)における人員整理後の待遇悪化への不満から、5月下旬に労働者が怠業〔たいぎょう〕に入りました。その動向は同伸銅所本工場(大阪市北区)・製鋼所(同西区)・電線製造所(同前)の労働者を刺激し、団体交渉権を要求する大争議へと発展します。経営側は、労使の協議機関である「工場協議会」を設置することで妥協をはかりますが、運営をめぐって労働者側は反発。事態が紛糾〔ふんきゅう〕するなか、大正11年2月に米・英・仏・伊・日の各国間に海軍軍縮条約が調印されると、軍艦用鋼管をおもに製造していた伸銅所本工場と尼崎工場では一部閉鎖や指名解雇が断行され、同年6月にはふたたび争議となります。しかしながら、争議団の結束が乱れた結果、7月1日に労働者側が惨敗を宣言して終結しました。
 転機となったもうひとつの争議は、大正13年の阪神電鉄争議です。阪神電鉄の労働者が11年6月に結成した最初の労組「談笑倶楽部〔クラブ〕」は、翌年3月頃までに姿を消しますが、13年4月には総同盟傘下の阪神電鉄従業員組合が結成され、8時間労働制や労働組合承認などを要求します。経営側がこれらを拒否したため6月28日にストに突入しますが、幹部の藤岡文六〔ふみろく〕らが警察に逮捕され、7月14日にはストを解除して、争議は組合側の敗北に終わりました。
 こうして総同盟は大経営の組織を失い、以後は中小企業を中心に活動を展開していきます。なかでも大正15年2月から3月にかけての大阪製麻〔せいま〕(小田村長洲)の争議は、同工場労働者の約4割を占める朝鮮人労働者が日本人労働者とともに闘った点が注目されます。
 なお、国際的な労働者の祭典であるメーデーは、日本では大正9年5月2日に東京で開かれたのが最初でした。尼崎の労働者は大正11年から大阪のメーデーに参加しており、14年には、総同盟尼崎連合会(同年9月5日創立大会)の主催で尼崎で初めてのメーデーが実現しました。貴布禰〔きふね〕神社に集合した約500人の労働者は8時間労働制の即時実行、この直前に成立した治安維持法の撤廃、男女同一労働同一賃金などの要求を決議し、六島新田までデモ行進を行ないました。


 大正13年6月27日、杭瀬の劇場「都座」で開かれた阪神電鉄従業員大会の様子。壇上で演説しているのは藤岡文六〔ふみろく〕。この大会で、翌日からストライキに入ることが決議されました。(村川行弘氏提供写真)


 住宅難が深刻化するなか、労働組合や無産政党は借家問題に取り組みました。大正11年には、総同盟が中心となって組織した尼崎労働連盟会が、布施辰治〔ふせたつじ〕らを顧問弁護士とする借家人相談所を開設しています。
 下の写真は、法政大学大原社会問題研究所が所蔵する、昭和2〜3年頃に全尼崎借家人同盟組織準備会が発行したビラです。尼崎市別所奥長町の労働農民党摂陽支部に設けられた準備会は、家賃3割値下げ、敷金全廃、公設住宅の増設、借家法改正などを訴えました。


全尼崎借家人同盟組織準備会発行ビラ(昭和2〜3年頃、法政大学大原社会問題研究所蔵)

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農民運動

 大戦期の物価高騰は農村部にも打撃を与え、多くの小作人の生活は窮迫〔きゅうはく〕しつつありました。こうしたなか、大正6年12月、猪名寺(園田村)の小作人は凶作のため5升口米〔くちまい〕(小作米1石につき5升の付加米を小作人が負担する慣行)を容赦してほしいと地主に要求し、上層小作人を代表に立てて交渉に臨みます。小作人側のこういった組織的な行動は前例がなく、地主側は大いに緊張を強いられました。
 こののち大正7年には東大島・浜田・東(大庄村)、8年には西長洲・金楽寺(小田村)、10年には田能〔たの〕(園田村)で、小作料減免を要求する争議が発生しています。さらに大正12年の猪名寺の小作争議においては、不作年の一時的な小作料減免のみならず、小作料そのものの「永久減免」が要求されます。大正11年に結成された日本農民組合(日農)の、兵庫県や岡山県の地方組織が掲げた「小作料永久3割減」という要求の影響を受けたものと考えられます。
 この時期、工業化の進展とともに企業・工場への就業機会が増え、農業から工場労働者へと転身する離作者が相次ぎ、農村は人手不足となっていました。このため、条件の悪い小作地の耕作を放棄して、地主への返上を申し出る「土地返還戦術」を取ることが可能でした。しかしながら、戦後不況が慢性化するにつれてこういった条件は消滅し、地主側が逆に土地取り上げを打ち出して、小作人に対し強硬な姿勢を取るようになっていきます。東難波〔なにわ〕など各所で小作争議が頻発し、尼崎市や周辺村を不穏な空気が覆いました。
 こうしたなか、大正14年3月、東難波において日本農民組合尼崎支部が結成されます。こののち昭和初期にかけて立花村や小田村に日農の支部が組織され、現尼崎市域は、都市部における農民運動がもっとも旺盛に展開される地域のひとつとなっていきました。

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普通選挙と治安維持法

 明治・大正期における制限選挙制のもと、民衆が政治に参加する機会はきわめて限られたものであったため、参政権の制限撤廃を求める「普通選挙運動」が、大戦後大きな高まりを見せます。大正11年1月23日、尼崎普選促進同盟会主催の演説会が市立図書館で開かれ、普選運動のリーダーであった今井嘉幸〔よしゆき〕弁護士らが演説を行ないました。同盟会は西日本各地の団体とともに西日本普選大連合を結成し、2月11日には大阪の天王寺公会堂で開かれた大会に参加しています。また12年2月には、女性を含めた普選即時実施を掲げて結成された兵庫県青年党が尼崎市で演説会を開催。築地町の天野〔あまの〕平一・平吾兄弟らが入党し、普選実施と政界革新を訴えました。
 一方、国内外における民主主義・民族解放、さらには社会主義・共産主義の潮流が力を増していくことに危機感を抱いた政府は、普通選挙実施と同時に新たな治安法を制定すべく、大正14年1月の帝国議会に治安維持法案を上程します。国体の変革・私有財産制の否定を目的とする結社の禁止を骨子とする同法は、各地での無産運動団体による反対運動を引き起こしました。尼崎市においても同年2月16日、市立図書館で開かれた総同盟尼崎連合会本部主催の尼崎市内外労働者大会が、治安維持法案反対を決議しています。

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金融恐慌下の社会運動

 昭和2年(1927)に金融恐慌が日本を襲うと、不況を解雇や賃下げで乗り切ろうとする資本と労働者の間の対立が激化します。その一方で労農運動や無産政党は左派・右派の路線対立により四分五裂となり、混迷の色を濃くしていきます。
 昭和2年5月、経営不振であった乾鉄線は大量解雇を目論〔もくろ〕みますが、総同盟から分裂した中間派労組・日本労働組合同盟傘下の関西合同労組乾鉄線支部は機先を制してストに突入し、52日間にわたる激烈な闘争を繰り広げます。不熟練の朝鮮人労働者も含めた解雇反対闘争であったことや、工場代表者会議を通じて県下各工場労働者に支援を求める戦術などが特徴的でしたが、警察による弾圧と労働戦線分裂のため争議団の結束は乱れ、争議は労働者側の敗北に終わりました。
 こののち、昭和3年の三・一五〔さん・いちご〕、4年の四・一六〔よん・いちろく〕という、2度にわたる全国の共産党一斉検挙により、乾鉄線争議を指導した国領巳三郎〔こくりょうみさぶろう〕らが検挙され、尼崎地域においても左派は壊滅的な打撃を受けました。
 こうして深まる不況と弾圧のなか、分裂状態に陥〔おちい〕った社会運動は苦難の時代を迎えることとなりました。

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尼崎市会の第1回普通選挙

普通選挙制度

 明治以来の選挙制度は、性別や納税額などによって選挙権を制限しており、さらに市町村会議員選挙においては、納税額により選挙人を区分する等級選挙制がとられていました。「大正デモクラシー」の流れのなか、こういった不平等な制度の撤廃を求める「普通選挙運動」が高まりを見せます。その結果、大正14年5月に衆議院議員選挙法改正が公布され、国政選挙における男子普通選挙制度が実現しました。翌15年には地方制度改正により府県・市町村会議員選挙においても、男子普通選挙制度が採用されます。
 こうして満25歳以上の男性全員の選挙権が認められました。尼崎市会選挙の場合、第1回普通選挙となった昭和3年の有権者7,864人は、前回(大正13年)の2,786人の2.8倍でした。定数30人の市会選挙は5月31日に投票が行なわれ、投票率87.1%と、制限選挙時とほぼ同レベルの高い投票率を記録しました。新市会への市民の関心は高く、6月14日の市会初日には傍聴者100人以上が詰めかけたと言います。

 初の普通選挙となった昭和3年5月の尼崎市会議員選挙においては、従来認められていた戸別訪問などが禁止されたこともあって、各候補者はポスターや演説会を通して、より幅広い有権者に対する宣伝に努めました。
 上の写真は、この市会議員選挙の際の、西本町〔ほんまち〕・鉛屋(秋岡家)の蔵付近を撮影したものです。(松井博通氏提供写真)

新たな政治勢力の登場

 普選が実現したことで、庶民にも政治参加の道が開かれることになりました。尼崎市では大正14年に、総同盟尼崎連合会や、地元の名士である阪本勝〔まさる〕らを中心に、労働組合員や水平社社員などの支持を得て関西民政党が結成されます。しかしながら、全国レベルの無産政党が、左派が多数を占める労働農民党と総同盟支持の社会民衆党に分裂したため、大正15年末頃には関西民政党を解散し、社会民衆党尼崎支部へと衣替えしました。昭和3年の市会選挙においては、同党から久保田労組〔ろうそ〕の山下栄二ら2人が当選したほか、中間派労組・日本労働組合同盟の活動家である藤岡文六〔ふみろく〕が日本労農党から当選を果たしました。
 一方、県会議員の六島誠之助を中心に、市会多数派への批判的活動を続けていた「公声会」も、昭和3年選挙において議席を倍増させる躍進ぶりを見せ、天野平一ら6人を当選させます。
 こうして登場した新たな政治勢力が競って取り組んだのが、昭和3年の電灯料金値下げ運動でした。前年以来の不景気を尻目に、沿線への独占的な電気供給により利益を上げ高配当を続ける阪神電鉄への市民の反発が、運動の背景にありました。
 公声会が8月11日に阪神電鉄に対して値下げを申し入れて以降、市会や市当局が阪神と交渉する一方で、社会民衆党は10月5日に阪神電灯電力値下期成同盟会(「阪神沿線電灯料値下期成同盟会」と記す史料もある)を結成し、独自の運動を展開。昭和4年にかけて、大幅値下げなどを求める不払い運動が阪神沿線一帯に広がりましたが、結局わずかな値下げ幅の獲得にとどまりました。


「阪神電灯電力値下期成同盟会ポスター」
(大阪府立大学人間社会学部図書室「長尾文庫」所蔵)

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