近代編第4節/十五年戦争下の尼崎4/都市化の進展と「大尼崎」(佐賀朝)




 昭和恐慌〔きょうこう〕が始まった昭和5年(1930)、国勢調査による全国の職業別就業者数において、第一次産業(農林漁業)従事比率が50%を下回ります。1920年代を通して、日本経済が恐慌から恐慌へとよろめく一方で、6大都市やその周辺の中小都市、地方中核都市への人口集中がすすみ、社会全体の都市的様相も顕著になっていきます。第一次産業就業比率の低下は、その傾向を象徴する現象であったと言えるでしょう。
 明治後期以来、都市化してきた尼崎地域では、この時期どのような変化が見られたのでしょうか。

人口の増大と構成の変化

1市5村の人口増加(5〜15年)
市村名 昭和5 昭和10 昭和15
人口 人口 (指数) 人口 (指数)
尼崎市 50,064 71,072 (142) 181,011 (200)
小田村 40,290 54,484 (135)
大庄村 10,717 18,245 (170) 43,971 (410)
立花村 8,203 12,283 (150) 24,084 (294)
武庫村 3,984 5,816 (146) 8,900 (223)
園田村 7,768 11,328 (146) 16,550 (213)
合計 121,026 173,228 (143) 274,516 (227)

『尼崎市史』第9巻掲載の国勢調査結果より。指数は昭和5年を100として計算した。

 明治後期から大正期にかけて見られた尼崎市・小田村の人口増は、昭和恐慌期以降さらに周辺村に波及します。上の表からわかるように、昭和5年から10年間で現尼崎市域の人口は2.3倍近く増加しました。特に顕著だったのは新たに工業地帯化が進行した大庄〔おおしょう〕村で、10年間に実に4倍以上に人口が膨〔ふく〕れ上がります。また立花・武庫・園田の3か村も、鉄道沿線開発などにより住宅地や商業地が形成され、いずれも人口が急増しました。
 工業化と市街化の進展は、職業別就業者の構成比率にも大きな変化をもたらしました。下のグラフにあるように、現市域南東部の尼崎市と小田村の就業者数を合計すると、鉱工業比率は昭和5年にすでに過半を占めており、両者が昭和11年に合併したのちの15年には、さらに7割近くにまで増加します。一方、農漁業は15年には1.3%にまで落ち込んでおり、現市域のなかでも早期に都市化・工業化が進行したこの地域においては、商工業、とくに工業を核とする都市的な人口構成がすでに確立していることがわかります。

尼崎市・小田村(昭和11年合併)の職業別就業者構成の変化

『尼崎市史』第9巻掲載、両年の国勢調査結果より

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すすむ都市計画

 人口の増大や工業化・市街化の進展にともなって、昭和戦前期には現市域各所において、都市計画事業がすすめられます。その前提となったのが、現市域にあたる1市5村を区域とする尼崎都市計画区域の設定でした。大正13年(1924)12月の都市計画兵庫地方委員会において決定され、昭和4年9月には都市計画街路を決定。幅員22〜27mの一等大路東西4線・南北5線、幅員15〜18mの二等大路東西1線・南北4線、ほかに短路線1線の計15路線が定められました。次いで昭和5年から6年にかけては、南部の尼崎市・小田村・大庄村に対して、市街地建築物法にもとづく住居地域・商業地域・工業地域・未指定地という用途地域区分が設定されます。同時に北部の立花村・武庫村・園田村に対しても、将来において市街地建築物法の適用区域となった場合の予定区分が設定されます。その結果、南部の1市2村は工業地域が60%以上を占めたのに対して、北部3か村の場合は予定住居地域が80%以上となっており、工業地帯化していく南部に対して北部を住宅地化していくという、都市計画上の意図を読み取ることができます。
 こういった都市計画は、知事を会長とする都市計画地方委員会での審議ののち決定され、最終的に内務省が認可することになっていました。尼崎都市計画区域の計画審議においては、尼崎市関係委員が商業地化を望むエリアについて、工業地域から商業地域ないし未指定地への変更を求めています。また、いったん用途地域の予定区分が決定されたのちの昭和9年になって、工場誘致を望む立花村が県に対して工業地域指定の拡大を請願するなど、市村側の修正要求がなされる場合がありました。しかしながら、それらはかならずしも十分に聞き入れられたわけではなく、都市計画策定は全体として阪神工業地帯の広域的整備という、国・県の意向を強く反映する形で行なわれました。
 こうして決定された都市計画を具体化する事業としてすすめられたのが、土地区画整理事業でした。本編第3節6「地域の変化と人々の暮らし」においてすでにふれたように、阪神国道(現国道2号)が開通する前後の大正12年から昭和10年にかけて、竹谷〔たけや〕新田・西難波〔なにわ〕・尼崎市北部という三つの耕地整理事業が阪神国道の沿線地域に施行されます。こうして国道沿線に新たな住宅地・商業地が形成され、すでに飽和状態に近づいてた尼崎市の旧市街地からあふれ出た人口を吸収していきました。
 これに続いたのが、主として尼崎市中西部と北部阪急沿線において実施された、組合施行または共同施行の土地区画整理事業でした。昭和8年の東海道線立花駅設置決定を受けて実施された橘土地区画整理事業を皮切りに、昭和戦前期に現市域において計20の事業が実施され、国道や東海道線、阪急などの沿線を中心に市街化がすすみました。これらの事業は、地元地権者の組合が主体となって実施し、施行事務について行政が指導や支援を行なう場合が多く、また阪急沿線においては、阪急電鉄自身が地元との共同施行の形で施行する場合が見られました。
 こういった地元住民や民間を主体とする事業に加えて、昭和10年代には公共団体である市村を施行者とする土地区画整理がすすめられます。後述する室戸台風からの復興土地区画整理や、小田村と合併後の尼崎市域のうち東海道線南側一帯の広範囲にわたる工業用地造成整備を目的として、昭和14年から実施された省線以南土地区画整理事業が、これにあたります。

土地区画整理事業
 区域を定めて道路・公園などをともなう住宅地や商業地などの街区を整備する、都市計画事業の一手法。大正8年公布、9年施行の旧都市計画法が、耕地整理法を準用して土地区画整理事業を行なうことを定めた。また尼崎市域の阪神国道沿線に見られるように、大正期には耕地整理の手法を用いて事業が行なわれており、これらも土地区画整理事業である。昭和29年には土地区画整理法が公布され、事業の根拠法となった。

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築港開発事業

 工業都市尼崎の基盤整備として、この時期実施されたもうひとつの重要な事業が、尼崎築港株式会社による臨海工業用地の埋め立て・造成事業でした。これより前に、鶴見・川崎を中心とする京浜〔けいひん〕工業地帯の埋め立て事業を手がけた実績を持つ、浅野総一郎率いる浅野財閥は、すでに大正期から阪神間に着目し、大正15年、尼崎市から大庄村、鳴尾村にかけての埋め立て事業の認可を兵庫県に申請します。一時は山下汽船との競願となりましたが、両者が合同して昭和3年に事業免許を受け、翌4年には尼崎築港(株)を設立、5年に工事を開始しています。
 尼崎市と大庄村の臨海部埋め立て工事は、総面積約51万7千坪に及ぶ大規模なものでした。昭和15年末までに44万5千坪が完成し、うち32万坪について譲渡・賃貸契約が成立。こうして1万トン級以上の船舶が直接接岸できる、一大工業港が形成されました。埋め立て地に進出したのは、関西共同火力発電、日本石油、尼崎製鋼、尼崎製鉄など、電力・石油・鉄鋼を中核とする重化学工業の大工場群でした。

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室戸台風の被害と復興

 昭和9年9月21日、室戸台風が阪神地方を襲いました。尼崎では午前7時〜8時30分頃に風速最高30mの暴風となり、8時10〜20分頃にはO・P(大阪湾最低潮位)4.7mに及ぶ高潮が襲来。暴風雨による家屋の倒壊や、当時の市域の約3分の2に及ぶ浸水などにより、大きな被害がもたらされました。死者・行方不明は現市域全体で146人にのぼり、ことに尼崎尋常高等小・小田第一尋常小・大庄尋常高等小という3校の木造校舎が倒壊したことによる犠牲者が児童23人・教師1人という多数をかぞえました。その慰霊のための碑(大庄小は秩父宮の慰問来訪記念碑)がそれぞれ建立され、今日も市立城内高校(尼崎尋常高等小跡地)・下坂部小学校(元小田第一尋常小)・大庄小学校の敷地に遺〔のこ〕されています。
 こういった暴風雨による被害はその後も続き、昭和10年や12年にも豪雨・高潮による被害が記録されています。昭和13年7月5日に記録的な豪雨が阪神地方を襲い、六甲山系が各所で崩壊、神戸市域を中心に大きな被害があった「阪神大水害」の際には、尼崎市の死者3人、武庫村1人などといった被害が記録されているほか、園田村では猪名川の決壊により、流域の農地や開発されたばかりの阪急園田駅周辺の住宅地に、冠水・浸水の被害がありました。
 このように、たびたび尼崎地域を襲った風水害が、工業生産に対して大きな被害をもたらした一方で、災害からの復興事業が、現市域南部を中心とする工業地帯化をさらに促進する効果をもたらします。室戸台風後の昭和10年3月、尼崎都市計画区域の街路・運河計画が一部変更され、災害復興事業としてすぐに実行に移されました。さらには、それぞれ尼崎市と大庄村を施行主体とする災害復興土地区画整理事業と大庄土地区画整理事業も実施されます。尼崎築港による築港開発に加えて、これらの災害復興事業は、南部重化学工業地帯の基盤整備として重要な役割を果たしました。

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大庄村の室戸台風被害

 現尼崎市域南西部に位置する大庄村は犠牲者99人をはじめ、丸島集落が流出、又兵衛新田もほとんど壊滅するなど、室戸台風による大きな被害を受けました。
 下の写真は、このときの様子を記録した写真帳で、林朝子〔あさこ〕氏から地域研究史料館に寄贈されたものです。朝子氏の父・岡田吉郎氏は、昭和9年当時又兵衛新田にあったベルベット石鹸〔せっけん〕に勤務し、岡田家は会社に隣接する社宅に住んでいました。この社宅も罹災〔りさい〕し、一家全員が暴風雨と高潮のなか遭難しかかった様子を、吉郎氏自身が記録した手記が残されており、同じく史料館に寄贈されています。その手記「嗚呼〔ああ〕昭和九年九月二十一日」には、次のように記されています。

「水は胸の当り迄来た 速く出て逃げ様と思ふが何分前后に七才と五才になる二人の子供だ 手を離す事は出来ない 一度手を離せば子供はそれっきり濁流の中に失ふのだ」「(妻の)照子も二度迄泥海の中で倒れたのであった 生れてやうやく一ヶ月半になる朝子も泥水の中にずぶりと二度迄倒れ込んだのだった」

 この後、一家は青年労働者の「伊地知〔いじち〕君」の決死の救助に助けられるなどして、九死に一生を得ることができました。


「昭和九年九月二十一日 武庫郡大庄村大風水被害実況」アルバム表紙


蓬〔よも〕川堤を修復する第4師団工兵第4大隊(高槻)


又兵衛新田ベルベット石鹸〔せっけん〕会社前の倒壊家屋

〔参考文献〕
林朝子氏寄贈の「嗚呼昭和九年九月二十一日」と「昭和九年九月二十一日 武庫郡大庄村大風水被害実況」アルバムについては、田中敦氏による史料紹介(『地域史研究』35−1、平成17年9月)をご参照ください。

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市村合併と「大尼崎」

 昭和8年、尼崎商工会議所の前身である尼崎商工共和会は、画家・牧生騏の筆になる「大尼崎鳥瞰図〔ちょうかんず〕」1万部を発行します(下巻グラビア参照)。ここで言う「大尼崎」とは、尼崎市・小田村・大庄村という、市街化・工業化がすすむ現市域南部一帯を指していました。
 昭和11年4月1日、このうち尼崎市と小田村が解消合併して、人口12万4千人余り・全国第31位の新たな尼崎市が誕生します。商工共和会は、これを「大尼崎合併」として祝賀し、10月8日夜に南城内の三都座〔みくにざ〕で開かれた祝賀式においては、有吉實〔ありよしみのる〕市長もまた「大尼崎について」と題して講演しています。昭和10年前後には、尼崎市に工業化がすすむ周辺村を加えた「大尼崎」の実現が、ひとつのキーワードとして経済界や官界に意識されていたと言えるでしょう。
 加えて、昭和10年代は、大規模な市町村合併が、国策として全国的にすすめられた時代でした。小田村との合併に続いて昭和17年2月11日、尼崎市は大庄村・立花村・武庫村を合併(編入)し、人口28万人余り・全国第11位の大都市となりました。
 こういった、昭和10年代の二度にわたる市村合併の要因は、主として次の二点にあったと考えられます。
 第一に、ここまで具体的に見てきたように、尼崎市のみならず周辺村を含めた広域において、工業化や市街地の拡大といった大きな変化が見られたことです。大正13年に尼崎都市計画区域に指定された1市5村において、南部を中心に工業化がすすむとともに、住宅地や商業地の開発が中北部にまで及んだため市村を越えた都市行政需要が生まれ、それに応じた市村合併が必要となりました。昭和15年に大庄村の10工場が、上水道を有する尼崎市と、大庄村の合併を陳情したことなどは、そのひとつの表れと言えるでしょう。
 第二に、準戦時体制から日中全面戦争後の国家総動員体制へという流れのなか、国が地方の官僚的統制強化を目指して市町村合併を推進したことや、総動員体制そのものが合併をうながしたことがあげられます。
 事実、尼崎市が二度にわたる市村合併を実現した背景には、兵庫県の合併勧奨や、内務官僚出身で宮崎県知事など地方官を歴任した経歴を持つ有吉實が昭和10年6月11日に尼崎市長に就任し、合併を推進したという事実がありました。また太平洋戦争下に実現した3か村合併においては、戦時行政需要増大の結果生じた市村間の財政的不均衡や、配給制度の実施によって各村の尼崎市への依存度が増したことといった、戦時体制下の諸要因が大きく作用していました。
 なお、市村合併の理由のひとつは、こういった市村間の財政的不均衡の是正と、そのことによって尼崎市周辺村に対して必要な都市行政を実施していくことにありましたが、その結果は合併村住民の税負担の増加となって現れました。昭和17年の尼崎市と3か村の合併前後の税負担を比較すると、一般住民が広く負担する県税(17年度以降は国税)家屋税付加税や、主として市・村民税からなる独立税が増収となっている一方で、おもに地主層が負担する国税地租付加税や企業への課税が減収となっています。戦時市村合併による行政の合理化は、大衆課税的な一面をともなって実行されたと言えるでしょう。

尼崎市をめぐる市村合併問題の経過(大正13〜昭和17年)
年 月 事     項
大正13.12
尼崎市・小田村・大庄村・立花村・武庫村・園田村を範囲とする尼崎都市計画区域決定
14. 9 小田村会に合併調査委員会設置
14.12 尼崎市長から小田村に合併申し入れ
15. 1 小田村会、合併交渉委員設置案を留保
15.12 尼崎市会、小田村への上水道分水を可決
昭和 2. 1 小田村内の8大字、尼崎市に分離合併申し入れ
2. 3 尼崎市の市村合併協議会、小田村の分離合併案を了承
3. 3 小田村で上水道敷設予算を議決
5. 4 小田村、尼崎市からの分水による上水道敷設工事起工(昭和
6.5完成)
5. 尼崎市、大庄村に合併申し入れ、大庄村は拒否
7. 7 尼崎市会に隣接町村合併促進調査委員会設置
8. 1 小田村会に市村合併調査委員会設置
8. 9 尼崎市・小田村の各合併調査委員が懇談
10. 6 有吉實が尼崎市長に就任
10.11 尼崎市・小田村合同市村合併連合特別委員会開催、解消合併を 満場一致で可決
11. 4 尼崎市と小田村が解消合併
11. 7 阪神間3市13か町村による阪神上水道市町村組合設立
11. 8 尼崎市会、新市章を決定
12.12 園田村、尼崎警察署管内から伊丹署管内に管轄替え
13. 5 尼崎商工共和会加盟の大庄村工場、西宮警察署管内から尼崎署 管内への管轄替えを県に陳情
14.10 大庄村・武庫村、西宮署管内から尼崎署管内へ管轄替え
15. 3 大庄村の10工場、既設上水道を有する尼崎市と大庄村の合併
を市と村に陳情
15. 5 この頃、大庄村・武庫村・鳴尾村・瓦木村が合併する武庫川市
構想が浮上
15. 6 尼崎市会、合併調査特別委員を任命
15. 9 尼崎市、大庄・立花・武庫の3か村に合併の申し入れ
16. 6 大庄村の村長に合併賛成派の平瀬巌若〔がんじゃく〕が就任
16.12 尼崎市と3か村の合併覚書調印
17. 2 尼崎市に大庄・立花・武庫の3か村を編入
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