現代編第1節/戦後復興の時代7/復興から成長へ(辻川敦)

敗戦後の尼崎の製造業

 大阪都市圏の戦時軍需〔ぐんじゅ〕生産を担ってきた尼崎の製造業は、昭和20年(1945)の敗戦により激しく生産が落ち込みます。下のグラフを見ると、戦後尼崎の工業生産が対米戦開戦前年の昭和15年レベルに回復するのは、従業員数については昭和20年代なかば、事業所数については30年以降の高度成長期であることがわかります。製造品出荷額等の場合は、卸売物価指数による補正数字の推移が示しているように、昭和25年にはじまる朝鮮戦争特需〔とくじゅ〕後に戦前レベルを回復しています。
 業種別で比較的回復が早かったのは金属や食料品の分野で、補正した推移において昭和15年レベルを回復するのは、前者が昭和22年、後者が24年でした。対照的だったのが機械製造業で、業種別構成比の変化を見ると、戦時軍需生産により膨〔ふく〕れ上がった機械製造業が敗戦とともに大幅に縮小され、鉄鋼を中心とする金属関連の分野が圧倒的比重を占め地域経済を牽引〔けんいん〕するという、戦後復興期から高度成長期にかけての尼崎製造業の特徴が確立されたことがわかります。
 金属工業がいちはやく回復し得たのは、市内各企業による生産再開・復興の努力に加えて、政府による政策的支援が大きな効果を発揮した結果でした。第一次吉田内閣(自由党)が昭和21年に設置した経済安定本部は経済復興策として「傾斜生産方式」を立案。石炭・鉄鋼などの基礎産業部門と食糧生産を日本経済復興の重点産業と定め、これらに対する復興金融金庫による資金の優先的配分や価格差補給金による赤字補填〔ほてん〕などを柱とする政策が、吉田内閣から社会党・民主党などの連立による片山内閣・芦田内閣にも引き継がれ、昭和22年から23年にかけて実施されます。


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ドッジ・ラインによる不況へ

 傾斜生産方式により、重点産業を中心とする工業生産は一定の回復を見せますが、その一方で復興金融金庫を中心とする資金供給がインフレーションを加速します。このため、昭和23年10月に成立した第二次吉田内閣(民主自由党)は12月に経済安定九原則を発表。さらに24年1月の総選挙後成立した第三次吉田内閣のもと、3月にはGHQ財政顧問ドッジよる「ドッジ・ライン」が発表され、インフレ抑制・緊縮財政を基調に経済政策が転換されます。このため不況となり民間企業経営は悪化。賃上げ抑制や、人員整理などが引き起こされます。
 尼崎市内の製造業にも、この不況の影響が及びます。とりわけ深刻なのは、経営体力に乏しい中小企業でした。前掲の5年間隔のグラフからは、昭和20年代を通して製造業の各指標とも回復していったように読み取れますが、1年ごとの数字を検証すると、経済安定九原則が発表された昭和23年には事業所数および製造品出荷額等の卸売物価補正指標が前年を下回り、後者は24年に回復するものの、事業所数はさらに減少します。従業員数は毎年増加しているので、不況のなか中小零細企業を中心に淘汰〔とうた〕が進み、経営規模の拡大傾向となって表れたことがわかります。
 経営悪化の要因のひとつは、政府の金融引き締めによる資金難でした。戦後復興と日本経済自立に向けた基礎体力強化を図るため、経済安定化施策の主たる対象は重点産業を中心とする大企業とされ、中小企業は金融面でも切り捨てられる結果となっていきます。
 市内においても、事業所の法人税滞納や賃金遅配〔ちはい〕・欠配〔けっぱい〕などが相次いだため、市は昭和24年8月27日に産業対策委員会を設置。ドッジ・ライン下の不況の実態調査と対策立案を進め、翌25年にはその成果として中小企業融資制度が実現します。また昭和24年11月には、尼崎工業経営者協会が兵庫県および兵庫労働基準局に対して賃金遅配工場への緊急融資制度実施を要望し、25年1月には融資が一部実施されますが、経営難に陥〔おちい〕っている多くの企業を建て直すのに十分なものではありませんでした。
 こうした不況の波は、各企業の経営に深刻な影響を与えたばかりか、本節4に紹介した大谷重工争議(昭和25年)の例に見られるような、抜き差しならない労資対立が生じる一因となりました。

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朝鮮戦争特需と戦後不況

 昭和25年6月に朝鮮戦争が始まると、米軍の兵站〔へいたん〕基地となった日本には軍需品をはじめとする特需の波が押し寄せ輸出が伸張、全般的な好景気となりました。ドッジ・ライン下の不況に苦しんでいた尼崎の製造業も、鉄鋼業を中心に息を吹き返します。しかしながら、一過性の軍需に支えられた景気は長続きせず、昭和27年には、はやくも日本経済は特需の反動による戦後不況に陥ります。
 尼崎の製造業もふたたび頭打ちとなり、ドッジ・ライン下の不況と同様に、中小企業を中心とする企業淘汰が繰り返されます。また、たびたび訪れる不況のなか、経営力の弱い企業は特定の発注元への依存度を強めざるを得ず、下請け化・親企業への系列化が進みました。戦後不況のしわ寄せは、こういった下請企業にもっとも過酷な形で表れることになります。

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鉄鋼再編・合理化と相次ぐ争議

 戦後日本経済復興の牽引車となった鉄鋼業でしたが、日本経済の自立をにらんで鉄鋼世界市場に互していくためには、戦前来の旧態依然とした製造設備の抜本的更新が不可欠でした。同時に、戦後民主化のなか労働組合が大きな発言権を持つに至った労使関係の見直しも、大きな経営上の課題でした。これらに対処する「鉄鋼第一次合理化」の嵐が、朝鮮戦争を機に全国の鉄鋼メーカーに吹き荒れることとなります。
 この鉄鋼合理化の時期、住友金属工業鋼管製造所と久保田鉄工所を除いては中小規模であり、高炉〔こうろ〕を持たない平〔へい〕・電炉〔でんろ〕メーカー、あるいは他社から供給される鋼材の加工に特化した単圧〔たんあつ〕メーカーである尼崎の鉄鋼各社の多くは、大手銑鋼〔せんこう〕一貫メーカー(高炉による製鉄=銑鉄供給から製鋼、鋼材製造までを行なうメーカー)との競争により経営が悪化し、合理化の実施やこれら大手への系列化を余儀なくされていきます。
 たとえば、戦前に市内で唯一銑鋼一貫体制を実現していた尼崎製鋼・尼崎製鉄の場合は、昭和29年の争議を機に尼鋼が倒産し、尼鉄ともども神戸製鋼の系列下に入ります。また大同鋼板の場合は、昭和27年以降、大手・富士製鉄との提携を強め、昭和27年・28年・30年と三次にわたった大規模争議はいずれも組合側が敗北。その過程で大幅な人員削減と合理化が実現します。同様に、日亜〔にちあ〕製鋼の場合は昭和29年に赤字に陥り、やはり大手の八幡製鉄の支援を仰ぎ系列化し、人員整理などの合理化を実施します。
 日亜労組〔ろうそ〕は合理化反対闘争を展開しますが、尼鋼・大同のような長期にわたる大規模争議には発展せず、条件闘争により妥結〔だけつ〕します。戦闘的で団結力が強いことで知られた尼崎の鉄鋼労組も、尼鋼争議以降は企業と組合が倒産により共倒れになるのを恐れ、非妥協的闘争を貫くことは困難になっていました。
 なお、これら3社と尼崎製鈑〔せいはん〕の労組は、産別会議系の全日本金属(全金)に属し、弱体化する尼崎地区全労働組合協議会(全労協)を最後まで支えましたが、昭和27年10月の総評尼崎地方評議会結成に参加し尼崎全労協を解散。また産業別の上部団体についても全金を離脱し、鉄鋼労連に加盟しています。こうして朝鮮戦争後の不況と鉄鋼合理化により、尼崎の労働運動もまた大きく様変わりしていくこととなりました。

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