現代編第1節/戦後復興の時代5/ジェーン台風と防潮堤(佐賀朝)




ジェーン台風の襲来

 昭和25年(1950)8月28日に硫黄島〔いおうじま〕付近に発生したジェーン台風は、9月3日午前10時頃高知県室戸岬の東方を通過し、紀伊水道を北上して午後1時頃神戸市内に上陸。その後兵庫県東部から若狭湾に抜け、日本海を通過して北海道を横断しました。神戸市内で記録された最低気圧は、午後1時10分の964.3ヘクトパスカルでした。
 尼崎市域が暴風雨圏内に入ったのは午前11時頃のことで、12時前後には最大瞬間風速44mを記録します。午後には風向が東から南西にかわり、O・P(大阪湾最低潮位)3.6mの高潮による浸水被害が発生。午後3時頃にはおおむね阪神国道以南が浸水し、小田地区では東海道線にまで浸水線が及びました。南部の初島地区では、家屋の2階なかほどまで水につかるというありさまでした。
 この台風による市域の被害は、下の表のとおり甚大〔じんだい〕でした。避難所42か所への避難住民はのべ10万2,410人に達し、本庁地区では避難所の閉鎖まで73日間、大庄〔おおしょう〕地区では59日間を要しました。市内経済への影響も大きく、尼崎商工会議所は被害総額143億9,920万円と試算しました。
 尼崎市は被災当日、災害救助本部を設置し、翌4日に開かれた臨時市議会は救済金5,000万円の支出を可決。5日には市議会が災害救助と復旧費の全額国庫負担を求めて、国への陳情〔ちんじょう〕を行ないました。

ジェーン台風による尼崎市域の被害

【人的被害】
死者22人 行方不明者6人 負傷者228人 罹災(りさい)者24万1,933人
【物的被害】
家屋被害 全壊389戸/半壊7,578戸/流失112戸/床上浸水1万8,679戸/床下浸水6,951戸
農地被害 823ha(冠水(かんすい)・流失・埋没)
堤防被害 決壊32か所/崩壊39か所/破壊52か所
橋梁(きようりよう)流失 破損6か所/決壊8か所
道路被害 決壊8か所/路面上荒94か所
工場被害 被災358工場/被害額32億7,940万円
「尼崎市事務報告書」昭和25年版より

『甦る夾竹桃』掲載、当時高校1年生だった伊藤時子さんの回想

 その日は朝から風雨がきつかったが、わたしは西宮の図書館へ行きレポートの資料を整理していました。ますます風雨がきつくなったので、昼前に帰宅しました。我が家のバラックの屋根や壁、ガラスに風雨がぶち当たり、家がつぶれないかとても不安でした。何時ごろだったでしょうか。「堤防がキレタゾー。水が来るから二階に上がれ」と見回りをしていた近所のおじさんがどなりました。(中略)路地のあっちこっちから水がすごい勢いで我が家めがけて押し寄せて来ました。でも荷物も大事なので夢中で運んでいるうちに、水はみるみる増えて来てアッという間に膝まで来ました。さらに太ももまで水につかりながら荷物運びをしていましたが、もう無理だと思って残った荷物が気になりながらも止めました。二階から水のおそろしい流れを見ていると、クジラ屋さんの大きな肉のかたまりが、ながれの中にプカプカと浮いていました。そのほかいろんな物が、トイレの汚物なども路地めがけて流れて来ました。

当時37歳だった岡田竹蔵さんの回想

 (築地の製釘工場から東本町〔ほんまち〕の家に)帰るとき東からま横の風が吹いていたが、急にパっと南の風に変わった。海からの風で高潮が押し寄せ、家の中にもアッという間もなく水が入っていた。そこで急いで天井裏の中二階に家族全員避難した。その時すでに背が立たんほど水が入っていた。タンスの上10cmほど残してみな浸水していた。いまもその時の跡がタンスに残っている。何も避難させる余裕はなく、人間が天井裏に上がるのがせいいっぱいだった。天井裏の中二階というのは、昔からこの辺はよく水に浸かるから、すぐ逃げられるようになっていた。(中略)あくる朝、父たちはどうなったか心配で、少し水の引いた中を築地へ行った。倒れた工場の中を探していると一本の手が見えた。それが父の手だった。父は大きなフロ桶の中で死んでいた。高潮が来た時、父はとっさに直ぐ近くにあったフロ桶に飛び込んだらしい。水に浮いたフロ桶は大きく揺れる。そこでフロ桶の上の方を両手で必死につかまえていたようだ。ところが高潮で工場全体が浮き上がり、フロ桶の上に木材が落ちてきて窒息死したらしい。もう1人の親戚の子は屋根をやぶって逃げて助かった。
(卜部建〔うらべけん〕・横山澄男両氏による平成11年の聞き取り記録より)


東(大庄地区)を襲う高潮、伊牟田寿雄氏撮影 (市広報課写真アルバムより)


日本発送電尼崎第2発電所施設の被害 (市広報課写真アルバムより)


浸水した出屋敷商店街、長岡克己氏撮影 (市広報課写真アルバムより)


阪神国道(国道2号線)、玉江橋東方より西を望む、高橋清氏撮影 (市広報課写真アルバムより)

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防潮堤の建設へ

 高潮被害を大きくしたのは、工場の地下水汲〔く〕み上げによる地盤沈下でした。戦前から問題化していた大阪湾岸の地盤沈下については、地殻変動原因説などもありましたが、昭和20年の敗戦による工業生産停止とともに沈下が止まったことで、その原因が地下水汲み上げにあることが明白となりました。
 尼崎市も昭和22年に臨時工業用水調査部を設けて調査を行ない、地下水汲み上げ量と沈下速度の相関関係を確認していました。一方、高潮対策としては、兵庫県の尼崎港改修5か年計画による工事が昭和23年から始まっており、東浜地区の防潮堤〔ぼうちょうてい〕工事や神崎川の防災工事が小規模ながらすすめられていました。ジェーン台風の襲来は、そうした矢先のできごとでした。

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工事方法・費用負担をめぐる対立

 ジェーン台風による被害の結果、本格的な防潮堤建設の必要性が、誰の目にもあきらかとなりました。昭和25年9月下旬に建設省近畿地方建設局が開いた災害対策協議会では、市の海岸線全域に防潮堤をめぐらし、船舶通過のための閘門〔こうもん〕をもうける「閘門式」を主張する尼崎市と、臨海部の島状敷地それぞれを堤防で囲む「輪中〔わじゅう〕式」を主張する兵庫県が対立します。県が閘門式に難色を示したのは、尼崎港の軟弱な地盤が長大な構造物を支えられるかどうか、高潮に対して閘門が弱点となるのではないか、工事費負担のめどが立たないなかでは輪中式によるブロック単位の施工の方が現実的ではないか、といった理由によるものでした。これに対して市は、閘門式が尼崎の地形に適しており排水効果も高いのに加えて、総延長が長い輪中式よりも工費と工期の節約になるとして、閘門式を強硬に主張します。結局、単独事業も辞さない市の姿勢に県も譲歩し、総工費20億円に及ぶ防潮堤・閘門の建設が決定しました。
 とは言え、この建設費をひねり出すのは容易ではなく、ようやく12月25日、建設費のうち4割を国が負担し、県と市がそれぞれ3割を負担するとの決定がなされました。一方、工期については、国は当初5か年計画を予定しており、連年の台風被害から一日も早い防潮堤完成を待つ尼崎市民の切実な要望を背景に、3か年計画を要求する市の主張に同意しませんでした。
 そこで市は、国・県負担分を市が立て替える形での3か年計画を立て、市負担分の半額にあたる3億円の負担を地元の会社・工場に求める案を立案します。地盤沈下の原因である地下水汲み上げを行ない、高潮被害を増大させた企業が防潮堤建設費を応分に負担すべきであるとの考えにもとづくものでしたが、企業側はこれに強い反発を示します。昭和26年3月、尼崎商工会議所は、台風被害とその復旧のための出費により疲弊〔ひへい〕した企業の窮状〔きゅうじょう〕と防潮堤建設費の全市的な負担を訴え、市債による建設費確保を申し入れます。

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市長交替と難航する募金集め

 費用負担の問題が決着しないまま、防潮堤建設工事は大部分が県の直轄工事、一部が運輸省第三港湾建設局の委託工事として、昭和26年2月16日に着工されました。
 その直後の昭和26年4月、地方自治法施行後二度目の統一地方選挙が実施されます。4月23日の尼崎市長選挙は、保守系現職の六島誠之助〔せいのすけ〕候補と、社会党・共産党が推す阪本勝〔まさる〕候補の一騎打ちとなりました。
 事前の新聞報道などでは、現職六島市長の優勢が伝えられましたが、結果は予想外の大差で六島候補の敗北となりました。公安条例制定見送り・法人市民税過重〔かじゅう〕負担・防潮堤建設費負担問題などを通じて、六島市政と尼崎市の保守政官界、尼崎工業経営者協会をはじめとする経済界との間に不協和音があったことや、対抗馬の阪本が文人政治家として、市内保守層にも高い人気を誇る候補であったことなどが、六島陣営の敗因であったと考えられます。一方、定数を4人増やして44人となった市議会選挙は、社会党が12議席から8議席に後退するなど、保守系の勝利に終わりました。
 初当選した阪本市長の最大の課題は、防潮堤建設費の確保でした。費用負担について阪本は、六島前市長が企業に求めていた3億円を1億2,000万円に減額し、この譲歩案に企業側も同意を示します。不足分は市中銀行からの融資2億4,000万円、市の一般財源からの9,300万円に加えて、市民から3,000万円の募金を集めることとし、昭和26年9月27日には尼崎防潮堤工事促進後援会が結成されます。市内の小学校区域ごとに支部を設置し、あらかじめ支部ごとに定められた割り当て額を目標に、町内会・婦人会・青年団・農業会などを動員して募金集めに取り組みます。
 とはいえ、昭和32年までに集まった寄付金は企業・市民あわせて9,885万円余りと、目標額の66%にとどまりました。防潮堤募金の直前には新制中学校建設費募金などもあり、市民の負担には限界があったのに加えて、企業の寄付も予定をはるかに下回ります。市は不足する財源を補充するため国に対して起債を求めますが許可されず、結局一般会計からの充当を余儀なくされます。その金額は、昭和26〜28年度合計で4億8,632万円にものぼり、昭和31年に市が財政再建団体の指定を受ける要因となりました。

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防潮堤の完成

 資金難に悩みながらも建設がすすめられた防潮堤は、市の経費立て替えによる3か年計画にもかかわらず工事が遅れ、5年目となる昭和30年度中にようやく完成しました。工期の遅れに加えて工事費もかさみ、当初予定の20億円から30億1,351万円にまで膨〔ふく〕れあがります。防潮堤全体の完成より早く、昭和29年4月には閘門が完成。同月20日に開通式が行なわれ、これにあわせて「尼崎大防潮堤完成記念 栄える産業博覧会」が開催されました。
 防潮堤の完成により、毎年のように尼崎を襲っていた高潮被害は大きく軽減されました。防潮堤の主要部分が完成していた昭和29年には、12号・14号・15号と連続して襲った台風にも尼崎市域に大きな被害はなく、36年9月の第二室戸台風においては浸水家屋が千戸を超えたものの、被害は隣接する西宮市よりも軽微〔けいび〕なものにとどまりました。ただし、臨海部の地盤沈下は、工業用水道が市内全域に行き渡り、地下水汲み上げが行なわれなくなる昭和40年代半ばまで続き、防潮堤そのものも沈下していきます。昭和36年の時点で、場所によっては完成時より1.6mも低くなっており、翌37年より高潮対策緊急3か年計画により、防潮堤の嵩上げがはかられることになります。

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ジェーン台風の浸水線と、防潮堤の設置場所


 幅5〜9メートル、延長12.4kmの防潮堤は、O・P(大阪湾最低潮位)6〜7mの高さに設定され、千トン級貨物船が通過可能な閘門が設けられました。


建設中の防潮堤(市広報課写真アルバムより)


閘門開通式(昭和29年4月20日)、船のくす玉を割る阪本勝市長(市広報課写真アルバムより)

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「尼崎大防潮堤完成記念 栄える産業博覧会」

 昭和29年3月20日〜5月19日、防潮堤閘門の開通にあわせて、市と兵庫県・朝日新聞社の共催による記念博覧会が、センタープール一帯と甲子園阪神パークを会場として開催されました。センタープールの第1会場には、工業都市尼崎の全容を展示する尼崎館や、県下の観光と物産を紹介する兵庫県館、先端産業・科学技術を紹介する産業館(朝日新聞担当)などが開設され、さらには野外劇場や児童遊園地も設置されました。
 4月20日の閘門開通式などによりムードも盛り上がり、後半は入場者数が伸びますが、前半の悪天候や私鉄ストなどがたたり、61日間の入場者数は42万人と予想を下回ります。収支も908万円の赤字(昭和30年2月末の決算見込み)と、残念ながら興行的には失敗に終わりました。


栄える産業博覧会、第1会場(センタープール)のモニュメントの前で(市広報課写真アルバムより)

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尼崎競走場(競艇場)の建設

 防潮堤建設工事によって多額の財政赤字が発生するなか、阪本市長は新たな収入源を模索していました。市内の園田競馬場は昭和23年に公営化され、市は県や他市とともに事業を主催、また昭和24年に公営化された競輪の事務組合にも属しており、これらから収益を得ていました。
 こうしたなか、阪本市長は蓬〔よも〕川から武庫川にかけての阪神沿線北側に広がっていた大庄湿地帯に目をつけます。掘削〔くっさく〕して収入源であるモーターボート競走場を誘致し、掘削土により湿地を埋め立てた場所には学校・公園・住宅などを建設、さらにはごみ溜め・蠅蚊発生源となっていた湿地の解消が環境衛生の改善につながるという、いわば一石三鳥のプランでした。
 これをみずから着想した阪本は、戦前の代議士時代に培〔つちか〕った人脈を駆使〔くし〕して、西宮市が有力視されていた競走場を強引に尼崎市に誘致します。昭和27年3月に認可を得て5月起工、8月末には完成し、9月14日に初レース開催という早業でした。こうして敷地面積12万1,521u、競走水面6万5,106uのセンタープールが建設され、高さ7mのスタンド収容人員3万人という、尼崎競走場がスタートします。初年度を除いて毎年度収益をあげ、不足する学校施設の建設をはじめとする市の公共施設整備財源として、長年にわたり市財政に寄与していくことになりました。

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