現代編第2節/高度経済成長期の尼崎2/産業構造の転換(2)−高度経済成長期における尼崎の商業・農業−(山崎隆三・地域研究史料館)




 

消費経済の拡大と商業の活況

 

 高度経済成長期は、日本全国で消費経済が急速に拡大した時期でした。また尼崎市域では、居住人口や昼間就労〔しゅうろう〕人口の増大にともない、消費人口が急増します。こういった経済動向を反映して、この時期の尼崎の商業が大きな成長と繁栄を見せたことが、下のグラフに表れています。
 昭和35年(1960)と47年(1972)を比較すると、卸売業、小売業とも共通して、事業所数が1.5倍、従業員数が2倍弱、年間商品販売額が約8倍に増大しています。ただし、この時期は卸売物価よりも小売物価の上昇率が高いため、年間販売額を両物価指数で補正すると、卸売業が7.2倍、小売業が4.1倍と実質的な増加率にはかなりの差が生じます。いずれにしても、あらゆる指標がこの時期の商業の大幅な拡大傾向を示していると言えます。特に、人口増が大きかった市域北部における伸びが顕著でした。
 また、特に高度成長後半期において、衣食関係に比して耐久消費財を扱う店舗が増大し、さらには書籍・写真関係・玩具〔がんぐ〕・娯楽用品といった多様な種類の店舗が高い増加率を示すなど、経済成長や都市化の進展にともなう消費傾向の多様化が、業種構成の変化に如実〔にょじつ〕に表れる結果となりました。


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大規模商店の進出

 こういった商業の活況を反映して、高度成長期を通じて1店舗あたりの平均商品販売額は大幅に増大しており、平均従業員数も増加しています。しかしながら実際の店舗規模においては、全事業所数に対する10人未満の小規模店舗比率が常に95%以上を占めており、圧倒的多数が小規模・零細店舗で休業・廃業も多いというのが実態でした。
 このように小規模店舗が多く立地する一方で、大資本による大規模商店の市内進出、スーパーマーケットの増加といった事態が進行したのが、高度成長期の商業をめぐるもうひとつの大きな変化でした。その皮切りとなったのは、昭和34年8月1日に神田〔かんだ〕中通に開店した「いずみや尼崎店」でした。同店が、尼崎市内に進出した最初のスーパーであったと言われています。
 昭和37年と40年にはダイエーの進出計画が持ち上がり、地元商業者による激しい反対運動がおこって紛糾〔ふんきゅう〕しますが、結局41年11月3日、ダイエー尼崎店が昭和通に開店します。反対運動の中心を担ったのは、市内商業者の団結と権利擁護〔ようご〕を目的として昭和30年に結成された、尼崎商店連盟でした。
 対照的に、地元が主体となって大規模店を設置したケースが、昭和39年4月21日開店の尼専〔あません〕デパートです。昭和36年着工の阪神尼崎駅高架化工事にともない、高架下に商業施設を開設すべく、市や尼崎商工会議所、商店連盟などが委員会を作って準備を進め設立したもので、株式会社の形態をとっています。

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農業の変化、消える農地

 商業とは逆に大きく縮小したのが、尼崎の農業でした。下のグラフから、どの指標も急激に落ち込んでいることがわかります。
 この時期の農業をめぐる大きな変化として、機械化の進展と、化学肥料や農薬が普及したことがあげられます。ことに除草剤の出現は、それまで草抜きに費やされていた膨大〔ぼうだい〕な労力を軽減し、大きな省力化につながりました。同時に、都市化の進展にともなう生活環境の変化から現金収入の必要性が増大したことが、農業縮小の大きな要因となりました。一例をあげれば、子どもが高学歴に進むことが普通となった結果、従来不要であった教育費が多くかかるようになるといった変化です。このほか生活・家政・農業経営のあらゆる面で、現金収入の必要性が増していきました。
 このことが、農作業の省力化と相まって、農家の兼業化をうながします。男手は収入を求めて会社勤めなどを始め、普段の農作業は女性や老人の仕事となっていきました。さらには農地を、需要がますます多くなる宅地や工場用地として手放したり、あるいは農家みずからが住宅や駐車場として経営する場合もありました。人口増にともなう学校増設や各種公共施設の設置、自動車交通の増加に対応する道路拡張など、公共の用地となった農地も少なくありませんでした。
 こうして、それまで農村地帯であった場所に住宅や施設が建て込んでくると、必然的に残った農地も農作業が困難となり、さらに脱農化を加速します。なおも農業にこだわる農家は、野菜のハウス栽培などに力を入れて経営を維持する努力を続けますが、多くの農家は兼業化や、農業経営縮小の道を選びました。


〔参考文献〕
尼崎市立地域研究史料館編『尼崎の農業を語る 262』(同刊行会、平成18年)
 平成8年から13年にかけて、市内旧大字〔おおあざ〕60地区を対象に、史料館が実施した農業史聞き取り調査の結果をまとめています。


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アーケードはいつできた?

 昭和28年12月8日付の神戸新聞尼崎版に「尼崎に初のシルバーアーケード出屋敷商店街に」という記事が載っています。出屋敷踏切から北に200mの区間が10日完成という内容で、これが市内初の鉄骨アーケードということになるようです。
 ところで、同じ昭和28年の航空写真を見ると、阪神尼崎駅北西の中央商店街の上にも白い屋根のようなものが写っていて、それなら出屋敷よりこちらの方が早いのでは? という疑問がわきます。
 同じ年に発行された『尼崎商工名鑑』には、神田中通3丁目から西を望む写真が掲載されています(下の写真)。上に天幕が張られ、射し込んだ光が地面に影を作っています。航空写真に白く写っていたのはこの天幕でした。時間や天候にあわせて開閉していたようです。

中央商店街 神田中通3丁目から西を望む(『尼崎商工名鑑』より)

 では中央商店街の天幕に替わるアーケードはいつできたのか。新聞記事を追っていくと、まず昭和33年11月27日付で、本町会が200mの水銀灯アーケードを完成させ、30日に戎神社で完成式の予定とあります。続いて35年10月7日付記事には四丁目会がアーケード完成、37年11月11日付には東町会が中央商店街入り口から132mを完成させ、これにより中央から三和・出屋敷まで約1km7商店街がアーケードでつながったとあります(いずれも朝日新聞阪神版)。
 写真は、本町会が最初に作った神田中通3丁目のアーケード完成時の様子。写真所蔵者であるお茶の中村園さんの前から東を望んでおり、華やかな飾りの数々から当時の商店街の活気が伝わってきます。


写真提供:中村園


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