現代編第2節/高度経済成長期の尼崎/この節を理解するために(山崎隆三・地域研究史料館)




鉄鋼現場(『市制50周年記念誌あまがさき'66』より)


商店街の歳末のにぎわい(三和〔さんわ〕本通り、昭和39年、市広報課写真アルバムより)

高度経済成長の開始

 「もはや戦後ではない」。昭和31年(1956)発行の『経済白書』において、政府は戦後復興を終えたことをそう宣言します。前年の昭和30年から始まる「神武景気〔じんむけいき〕」のなか、同年の輸出は対前年比23%増となり、はじめて20億ドルの大台に到達します。昭和31年には鉱工業生産指数も対前年比120%以上と、高い伸び率を示します。
 輸出の増大を支えたのは、戦前来の主要輸出品であった繊維〔せんい〕製品に加えて、昭和戦前期の重化学工業化・軍需〔ぐんじゅ〕生産化により発達してきた鉄鋼・機械製品でした。この時点では繊維が輸出総額の30%以上と未だ最大の比率を占めますが、高度成長につれて鉄鋼・機械に逆転され、比重が低下していくこととなります。
 昭和30年代は、工業生産が拡大すると原燃料輸入が急増して貿易収支が赤字となり、金融引き締め策がとられて生産が停滞する「国際収支の天井」と言われる景気パターンが続きます。昭和33年には神武景気をしのぐ「岩戸景気〔いわとけいき〕」が訪れ貿易収支も黒字となりますが、36年には赤字に戻ります。このパターンを解消したのは、昭和40年に始まる「いざなぎ景気」でした。国内生産の鉄鋼を主原料とし、輸入原燃料消費が比較的少ない機械製造業が大きく伸びたことで「天井」が取り払われ貿易収支の恒常的黒字が実現します。
 昭和40年を境に、貿易収支と国内総生産は急上昇していきます(グラフ参照)。産業構造の高度化、機械工業の発展による安定的輸出超過が、この急成長の要因でした。同時に、それまで不足に悩んできた外貨を大量に獲得していくことも可能となりました。



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都市活力と経済

 昭和45年、尼崎市の人口は55万3,696人とピークを迎えます(国勢調査による)。農地が多くを占めた北部にも住宅地が広がり、交通網も整備されるなど、市域は急速に変貌〔へんぼう〕していきます。
 そんな尼崎の都市活力を支えたのが、臨海部を中心に展開する製造業でした。阪神工業地帯の中核として、日本の高度経済成長を大きく支えたと言ってもよいでしょう。ただし、「鉄のまち」と言われた尼崎の鉄鋼業はすでに頭打ちとなっており、戦前来の工業都市尼崎においては時代の変化に応じた抜本的な産業構造の転換もむずかしく、高度成長後半期には全国に占める尼崎の経済的地位は徐々に低下していきます。
 製造業以外の分野では、人口の増大や消費経済の拡大を反映して商業が活況を呈する一方で農業が縮小。都市化の進展により農家の兼業化や脱農化、農地の宅地化が大きくすすみます。なお、農業と同様かつては尼崎を代表する産業であった漁業は、この時代に終えんを迎えます。昭和40年代、築地の漁師たちの東支部と、武庫川下流の丸島の渡船業者を中心とする西支部からなる尼崎漁業協同組合が存続していましたが、 昭和49年、この時点の組合員に限り漁を続けることを認めるという条件で、兵庫県が漁業権を買い取り組合は解散します。その後有志が任意団体・尼崎漁業組合を組織し、尼崎の漁業の伝統を受け継いでいきます。



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高度経済成長期の政治動向

 高度成長期は、政治的には55年体制と呼ばれる保革対立の時代でした。昭和30年11月の保守合同により誕生した政権党の自由民主党と、同じく30年10月に左右両派の統一により誕生した日本社会党を中心とする革新陣営が対抗。地方政治においては、特に昭和40年代の高度成長後半期、都市部を中心に多くの革新自治体が誕生します。
 戦後復興期に早くも阪本革新市政を誕生させた尼崎市の、高度成長前半期の市政を担ったのは薄井一哉〔かずや〕市長でした。昭和29年、阪本後継者として左右両派社会党の推せんを受け当選しますが、2期目以降は社会党と袂〔たもと〕を分かち、保守の立場をとります。薄井市長が引退した昭和41年には社会党員の篠田隆義〔しのだたかよし〕市長が当選。その後昭和60年代にかけて、革新市政が続きます。国政レベルでも保革拮抗〔きっこう〕しており、昭和30〜40年代の衆議院総選挙においては、尼崎を含む兵庫2区5議席のうち2〜3議席を、社会党・民社党あるいは共産党といった革新政党が占めるのが常でした。
 労働運動も、戦後復興期に引き続き盛んでした。昭和27年10月に結成された日本労働組合総評議会尼崎地方評議会(総評尼崎地評)と、昭和38年6月に総同盟尼崎地方協議会と兵庫全労尼崎地区会議が合同して結成された尼崎地区同盟会議(昭和40年1月、尼崎地区同盟となる)が、尼崎の労組〔ろうそ〕活動を支えます。
 日本全国をゆるがした昭和35年の安保闘争においては、安保改定阻止尼崎市民共闘会議に右派系の兵庫全労尼崎地区会議が参加し、共産党は当初加わらず途中からのオブザーバー参加にとどまるという、全国的にもめずらしい広範な共闘体制が実現していました。昭和35年5月の国会で政府与党が安保改定を単独可決した翌6月4日、大物〔だいもつ〕公園で1万人規模の決起大会が開かれ、これを襲撃した右翼団体・護国団〔ごこくだん〕のメンバーが労組員を負傷させるという事件も発生しました。 戻る

行政施策の展開

 高度成長期は、新たな都市課題に応じて、行政施策が旺盛に展開された時代でした。増大する税収や、独自財源である競艇場収入を財源として、市は都市基盤整備、学校や公共施設の建設、広域行政・教育・文化・福祉・同和対策といった多様な施策を実施していきます。
 とりわけ、深刻さを増す公害問題への対処は、この時代の尼崎市にとって重要な課題となりました。市民・公害被害者の側からも、生存権をかけた切実な公害反対闘争が展開されていきます。

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ドル・ショックと石油危機

 昭和40年代後半、ドル・ショック(46年)・石油危機(48年)という、日本経済の根底をゆるがすふたつのできごとが相次いで起こります。これをきっかけとして尼崎の製造業は停滞・縮小へと転換。同時に市人口の減少が始まります。
 こうして尼崎は、都市活力の停滞という、新たで深刻な課題に直面する時代を迎えることとなります。

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