現代編第2節/高度経済成長期の尼崎1/産業構造の転換(1)−高度経済成長期における尼崎の製造業−(山崎隆三・地域研究史料館)

高度経済成長期における製造業の量的拡大

 

 戦後復興期を脱した尼崎の製造業は、高度経済成長が始まる昭和30年(1955)からドル・ショック直前の45年にかけて、量的な面では大きな成長を遂〔と〕げました(下のグラフ参照)。この間、製造品出荷額等総額は8.3倍となっており、卸売物価指数の上昇を勘案しても、約7倍に増えています。
 製造業の全般的な伸びを反映して、事業所数と従業員数も、ともに増加しています。しかしながら、製造品出荷額等総額と同じく昭和30年から45年にかけての増加率を計算すると、事業所数で3.3倍、従業員数で2.1倍と、製造品出荷額等総額に比べてかなり低い伸び率となっています。言い換えれば、1事業所あたりの製造品出荷額等総額は2.5倍、従業員1人あたりでは4倍となったわけで、製造業全体の生産性が大きく向上したことがわかります。
 業種別で見ると、鉄鋼・非鉄金属・金属製品の合計が、つねに製造品出荷等総額全体の40%以上を占めており、高度成長期の尼崎の経済を支えるものとなっています。それに次ぐのが一般機械・電気機械・輸送機械といった機械工業で、昭和30年には鉄鋼・金属関係の約4分の1の規模であったものが、40年代には50%以上の規模にまで成長します。「鉄のまち」と呼ばれた尼崎ですが、実際にはこの時期すでに尼崎の鉄鋼業は衰退期に入っており、それに替わって伸びてきたのが機械製造業でした。一方、食料品等の生活消費財を生産する部門の比率はごくわずかであり、ここにも尼崎の製造業の特徴のひとつが表れています。


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産業構造転換の困難性

 

 こういった尼崎の製造業の特徴は、大阪都市圏・阪神工業地帯に共通するものでした。
 大阪都市圏の産業構造の特徴としては、商業・金融・サービス業などの第三次産業に比較して、製造業等の第二次産業の比率が高いこと、またその製造業において重化学工業が主流をなしており、そのなかでも特に鉄鋼・金属等の基礎資材型工業の比率が高いことが指摘されています。後掲の就業者数比率の比較や、さきに指摘した製造業の業種構成からもわかるように、こういった大阪都市圏の特徴がさらに凝縮〔ぎょうしゅく〕されているのが、尼崎であると言えます。
 そして、こういった尼崎特有の産業構造は、高度成長期以降の都市経済の展開にとって、不利な条件となりました。一般に、都市の経済が高度化するにしたがって、製造業をはじめとする第二次産業に対して、第三次産業が比率を増していくと言われています。また製造業においては、素材・中間財を生産する基礎資材型業種の生産に対して、機械製造に代表される加工度の高い財の生産が増大します。大阪都市圏においても、尼崎においても、高度成長期を通して産業構造の高度化が進行しますが、基礎資材型重化学工業に著しく偏〔かたよ〕ったその業種構成や、工業地帯としての開発時期が古く、工場用地がすでに狭あい化していることなどから、時代の変化に即応した構造転換が、他の都市圏に比べて困難でした。
 こうして、大阪都市圏、ことに尼崎においては、製造業全体に占める地位は徐々に低下していくとは言え、基礎資材型の重化学工業が大きなウェートを占め続けます。これらの業種は、工業用水や工場用地、電力等エネルギー資源を大量に消費する一方で、機械製造に代表される加工度の高い財の生産に比して製品付加価値や雇用吸収力が低く、さらに公害発生源になりやすいといった特徴がありました。それゆえ、大阪都市圏・尼崎のいずれもが、高度成長後半以降は、経済的地位の相対的低下を余儀なくされていきます。下のグラフを見ると、尼崎の場合は昭和30年代半ばをピークとして、鉄鋼業の場合は急激に、製造業全体としてもゆるやかに、全国に占める製造品出荷額等総額の比率を低下させています。

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製造業の質的転換 −鉄鋼業の場合−

 こういった尼崎の製造業の、高度成長後半以降におけるある意味での減速・停滞傾向は、相対的地位の量的低下に加えて、質的な低下としても表れます。その典型となったのは、やはり尼崎の製造業を代表する業種である鉄鋼業でした。具体例に沿って、見てみることとしましょう。
 高度成長期を代表する鉄鋼企業としては、尼崎製鋼・尼崎製鉄(昭和33年に合併し、尼崎製鉄となる)、尼崎製鈑〔せいはん〕、大谷重工業、久保田鉄工所、住友金属工業、大同鋼板、日亜〔にちあ〕製鋼(昭和34年、合併により日新製鋼となる)などがあります。これらの企業を、高度成長期以前の業態別に分類すると、次のようになります。
(1)高炉〔こうろ〕メーカー(銑鋼一貫)
 高炉を有し、鉄鉱石を原料とする製鉄から製鋼、最終製品の鋼材製造までを一貫的に行なう。尼崎製鉄・尼崎製鋼がこれにあたる。
(2)平〔へい〕・電炉〔でんろ〕メーカー
 平炉〔へいろ〕または電気炉により、鉄くずを主原料として鋼材を生産する。大谷重工業、住友金属工業、大同鋼板、日亜製鋼。
(3)単圧〔たんあつ〕メーカー
 (1)(2)から素材提供を受け、圧延〔あつえん〕または加工により鋼材や鉄鋼二次製品を生産する。尼崎製鈑。
 なお久保田鉄工所も加工専門のメーカーですが、鋳鉄管〔ちゅうてつかん〕・鋳鋼管〔ちゅうこうかん〕などの生産に特化した、他とはやや性格が異なる業態となっています。
 こういった尼崎の鉄鋼企業の多くは中小規模のメーカーであり、全国規模の銑鋼一貫メーカーの系列下への再編が、すでに戦後復興期の全国的な鉄鋼合理化のなかで進行していました。高度成長期、この流れがさらにすすむなか、系列化された尼崎の各工場の多くは生産機能の独自性を失い、系列メーカーの全国展開のなかでの補完的生産機能へと縮小され、あるいは廃止されていきます。

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系列下に再編されたのち、姿を消した企業

 たとえば、「鉄のまち」尼崎を代表する存在であった尼崎製鋼・尼崎製鉄の場合、昭和29年の尼鋼争議・倒産ののち、尼鋼・尼鉄とも神戸製鋼傘下の企業となり、昭和33年には両社が合併して尼崎製鉄となります。 市域鉄鋼生産量の50%以上を占めるのみならず、その技術力を世界的に高く評価される存在でしたが、昭和40年には神戸製鋼尼崎製鉄所として完全に親会社に吸収され、神戸製鋼が新鋭の加古川製鉄所に生産重点を移すなか徐々に生産を縮小、昭和62年に生産を終了します。
 大谷重工業も、同様の道筋をたどりました。昭和43年の倒産を経て八幡製鉄傘下に入り、昭和52年に同系列の大阪製鋼と合併して合同製鉄尼崎製造所となったのち、昭和55年に閉鎖されます。

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系列下に再編され存続したケース

 これとは逆に、大手系列下に入り、平・電炉メーカーから単圧メーカーに業態を転換することで存続する企業もありました。
 大同鋼板の場合は昭和20年代後半に富士製鉄との提携関係を強めるなか、鋼材供給を受けることとなり、自社製鋼設備の生産効率が低かったこともあって昭和27年には製鋼を中止、圧延帯鋼〔おびこう〕・亜鉛鉄板などに特化することで、これらの生産において全国有数の企業へと成長しました。
 また日亜製鋼の場合は、やはり昭和20年代後半に八幡製鉄の系列会社となり、昭和34年には日本鉄板と合併して日新製鋼となります。その後、同社呉工場の粗鋼〔そこう〕・鋼材生産が伸びるなか、製鋼効率が低かった尼崎工場の平炉は昭和40年に操業停止、同時に圧延部門も次々と休止され、亜鉛メッキ・カラー塗装などに特化した加工工場へと生まれ変わります。

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企業内における再編

 自身が大手企業であり、自社内における工場再編のなかで生産が限定縮小されていったのが、住友金属の事例です。尼崎の鋼管製造所は、市内最大規模の鉄鋼事業所であると同時に、戦前来同社の主力工場であり、鋼管製造とともに平炉による製鋼を行なっていました。しかしながら、銑鋼一貫化をめざす住友金属は、昭和28年に高炉を持つ小倉製鋼を合併、昭和36年には新鋭の和歌山製鉄所が稼働します。この結果、同社工場のなかでもっとも生産性が低かった鋼管製造所の平炉生産は昭和35年に終了し、替わって電気炉を新設。以降鋼管製造所の社内分担は、特殊鋼自給・少量多品種の管材生産・中小径高級鋼管製造などに限定されていきます。
 この後、同社は昭和46年に鹿島製鉄所の稼働を開始し、また41年には系列会社である海南鋼管(和歌山県)を設立、これら新鋭工場において粗鋼・鋼材生産および主力鋼管製品の製造を展開していきます。こうして、尼崎の鋼管製造所の社内における相対的地位は低下していく結果となりました。

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分野別構成、元請け・下請け関係の展開

 以上のようないくつかの道筋をたどって、尼崎の鉄鋼業は徐々に後退し、かわって機械工業が比重を増していきました。そして、これら金属・機械の分野を中心に、元請け工場と、それを下支えする膨大〔ぼうだい〕な中小・零細の下請け工場群が展開しているのが、高度成長期における尼崎工業地帯の特徴でした。元請け・下請けという点では、市境を越えて大阪市域にも相互にその関係が広がっており、一体をなす工場地帯を形成していました。
 一方、尼崎においては、金属・機械工業に加えて化学工業の展開も見られますが、他の新興工業地帯のような、本格的な石油化学工業の発展・コンビナート化は実現しませんでした。さきにふれたように、工業地帯としての開発時期が古く、工場用地がすでに狭あい化している尼崎においては、こういった新たな製造業が大規模に展開するだけの余地はすでになく、むしろ製造業の過度の集積を緩和し、悪化した都市環境を改善していくことが課題となりました。

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法・施策面での変化

 行政施策や法律面でも、こういった方向性が具体化されていきます。兵庫県は昭和32年に「阪神・播磨工業地帯整備促進対策本部」を設置し、整備計画を策定します。そこにおいては、阪神工業地帯はすでに飽和状態にあるとされ、播磨工業地帯の開発、阪神工業地帯との連携が目標とされます。
 また、昭和38年公布の「近畿圏整備法」と、翌39年公布の付属法「近畿圏の既成都市区域における工場等の制限に関する法律」は、近畿圏の既成都市区域において、過度の産業・人口の集中を防ぐため大規模工場・学校等施設の制限区域を定めます。尼崎市の場合は、阪急神戸線以南のうち臨海部を除く区域が制限区域となり、工場等の新設・増設が規制されることとなりました。さらに昭和47年公布の「工場再配置促進法」においては、前法の定めた制限区域が、さらに工場等の移転促進地域として指定されました。
 尼崎市自身も、昭和43年度末をもって「工場誘致条例」を廃止します。この条例は、工場を誘致することで人口増・産業活性化・雇用機会創出・税収増大などを実現すべく、戦後復興期に検討され、昭和29年に制定されたものでした。当初は新設・拡張工場への奨励〔しょうれい〕金交付ならびに便宜〔べんぎ〕供与(道路・橋梁〔きょうりょう〕・港湾整備等)を規定していましたが、昭和32年度には奨励金を廃止して便宜供与のみの制度とし、38年度以降は工場からの申請もなく、有名無実化していました。
 こうして尼崎の製造業は、取り巻く環境が厳しさを増すなか、量的拡大にもかかわらず全国に占める地位を徐々に低下させながら、昭和40年代後半のドル・ショックと石油危機という、新たな困難に直面していくこととなります。

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高度経済成長期の尼崎の製造業

 高度成長期の尼崎市内に数多く立地した製造事業所のなかには、それぞれの業種・分野におい て独自の高い技術力を誇り、全国的に高いシェアを占めた企業・工場も少なくありませんでした。

〔鉄鋼業の場合〕−尼崎製鋼所−

 昭和7年に大庄〔おおしょう〕村中浜新田に設立された尼崎製鋼所は、昭和12年に銑鉄〔せんてつ〕自給のため尼崎製鉄所を開設し、市内で唯一の高炉メーカーとなりました。
(写真=高炉の炉前作業、昭和44年9月、片岡敏男氏撮影)


 同社は中小規模メーカーであるにもかかわらず、オーストリアで開発された純酸素上吹転炉(LD転炉)を日本で三番目に稼働させるなど、技術革新に積極的でした。
 写真は昭和35年9月のLD転炉(画面左上)火入れ式の様子。(小林清二氏提供写真)



 LD転炉の導入により、従来の平炉と同様の高品質鋼を、低コストで効率的に生産することが可能となりました。そのいち早い導入を強力に推進したのは、卓越した技術者であった同社製鋼課長・青山芳正氏であったと言います。
 写真は、同社のベストセラー商品となるDACON(デーコン、鉄筋建築に用いる構造用の高張力異形鉄筋)のカタログです(昭和36年発行)。LD転炉の導入による製鋼コストの削減により、製品製造・供給が可能となりました。

〔参考文献〕小林清二「不世出の鉄鋼技術者 青山芳正氏」(『地域史研究』34−1、平成16年9月)、佐藤益弘「もう一冊の本」(同前35−2、平成18年3月)

〔機械製造業の場合〕−中島製作所杭瀬工場・中島運搬機製造−


 明治38年(1905)、大阪市西区に創設された中島製作所は、昭和5年に日本初の電気バス試作車を製造した会社であり、戦後初期に尼崎市バスが導入した電気バスも中島製でした。
 昭和10年12月、同社は小田村梶ヶ島に杭瀬工場を開設します。電気運搬車・電気バスなどを製造する部門工場でした。
 写真は工場敷地内に並ぶ小型貨物電気自動車。(戦前または戦後初期、大村貞明氏所蔵写真)


 昭和24年12月、杭瀬工場内に関連会社の中島電気自動車(株)が設立され、同29年2月には中島運搬機製造(株)となります。国内工業用バッテリーカー製造の最大手でしたが昭和42年に高槻市に移転。残った中島製作所杭瀬工場は、昭和50年代半ばに廃止されました。
 写真は、中島運搬機製造の会社案内に掲載された昭和32年製・日本初のサイドフォークリフト。新三菱工業(株)に納品された製品です。

〔参考文献〕
『市研尼崎』22「特集尼崎の産業構造」(尼崎市政調査会、昭和54年6月)


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