現代編第3節/石油危機から震災まで/この節を理解するために(辻川敦)




「ちかまつ」と寺町

尼崎市文化行政の中心テーマとなりました。


文楽人形による墓前祭、人形をあやつるのは人間国宝・吉田文雀氏(平成16年10月の近松祭にて、尼崎市撮影)


下坂部小学校浄瑠璃クラブによる、近松記念館ホールでの演技(平成16年10月の近松祭にて、尼崎市撮影)


寺町の本興寺開山堂(平成6年8月、市広報課撮影)

 阪神工業地帯の中核都市として、高度経済成長の一翼を担ってきた尼崎市。その人口は昭和45年(1970)に55万人を越えて最大を記録し、以降はゆるやかな減少傾向へと転じます。このことは、工業都市尼崎にとっての最盛期が、高度成長期にあったことを象徴的に示していると言えるでしょう。そんな尼崎は石油危機以降、どのような時代を迎えるのでしょうか。

石油危機以降の日本経済

 まずはじめに、この時期の尼崎の状況を知るうえでの前提となる、日本経済全体の動向を見てみることとしましょう。
 昭和30年代以降高度成長を続けてきた日本経済は、昭和48年と54年の二度にわたる石油危機を境に、不況へと転じます。下のグラフから、第一次石油危機以降回復しつつあった国際貿易収支が、第二次石油危機により激しく落ち込んだことがわかります。石油価格と円相場の急騰〔きゅうとう〕により、日本経済を牽引〔けんいん〕していた工業製品の輸出が大幅に減少したわけです。
 こうして、国際的な競争力低下の危機にみまわれた日本の製造業でしたが、石油消費量をおさえる省エネ技術の開発をはじめ、設備投資や生産拠点再配置などの事業再構築によりこの不況を乗り切り、驚異的な回復力を示します。グラフの数字が示しているように、1980年代には国内総生産と輸出がともに回復し、貿易収支の黒字額も大きく増大。昭和58年には西ドイツを抜いて、世界最大の貿易黒字国となりました。国内総生産も増大を続け、日本はアメリカに次ぐ世界第二の経済大国と言われるようになります。


『完結昭和国勢総覧』、『日本統計年鑑』各年版より作成

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製造業の転換と尼崎の経済

 日本経済を牽引する輸出の中心を担ったのは、石油消費量が比較的少ないため原燃料費のコスト比率が低く、その一方で製品付加価値が高い機械工業でした。昭和60年の輸出額全体に占める機械製品の比率は50%であり、かつての日本製造業の代名詞であった繊維製品(3%)や鉄鋼(8%)に大きく水をあけています。
 こうしたなか、尼崎の製造業においても日本全国と同様、機械工業の比重が増していきます。しかしながら、「鉄のまち」という言葉に象徴されるように、戦前来鉄鋼を中心とする基礎資材型重化学工業が盛んであった尼崎の製造業は、高度成長後半期に引き続き、全体としては停滞・衰退傾向を示すようになります。
 石油危機に続いて、1990年代初頭にはバブル経済が崩壊し、日本経済全体が構造的長期不況に陥〔おちい〕ります。平成7年(1995)の阪神・淡路大震災による打撃も重なり、尼崎をとりまく経済環境はさらに厳しいものとなっていきます。

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尼崎市政の展開

 では、こういった経済環境のもと、石油危機以降の尼崎市政は、どのように展開していったのでしょうか。
 石油危機の時点における尼崎市政は、高度成長期から続く篠田〔しのだ〕市政でした。これに続いて昭和53年以降は、前市政を受け継ぐ野草市政3期という、いわゆる「革新」市政が続きます。野草市長の後継争いとなった平成2年選挙の結果、六島保守市政へと転換。以降は宮田市政2期を経て、白井市政となります。
 これら各市長のもと、昭和46年策定の「まちづくり基本構想」、昭和54年策定の「総合基本計画」に始まり、時代の変化や都市課題・経済情勢に応じて基本計画が策定・改訂され、これにもとづく都市行政が実施されていきます。バブル経済が崩壊する1990年代初頭までは、競艇場収入をはじめとする豊かな財源をもとに、都市基盤整備や福祉施策の拡充、近松と寺町を核とした文化行政などが旺盛に展開されます。福祉・教育・文化など、さまざまな分野の公共施設が多く建設されたのもこの時期です。その後は経済の停滞・後退に加えて、平成7年の阪神・淡路大震災の被害と復興という課題が重なり、むしろ行財政改革・財政再建が中心課題となっていきます。

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公害・環境問題の新たな展開

 また、高度成長期には尼崎の代名詞ともなった公害問題については、兵庫県とともに市内企業・工場との間で第三次・第四次公害防止協定を結ぶなど公害防止対策を強化。さらには市内の緑化推進・景観整備などを含めた、総合的な環境施策を実施していきます。さまざまな環境改善の取り組みにより、工場排出汚染物質の削減や河川水質改善といった変化が現れた一方で、大気汚染、とりわけ国道43号・阪神高速という2階建て道路沿線住民の被害は引き続き深刻でした。このため国道43号線道路公害訴訟(昭和51年提訴)や尼崎大気汚染公害訴訟(昭和63年提訴)といった、阪神地域のみならず全国的にも重要な意味を持つ大規模公害訴訟が、原告住民と被告の国・道路公団・企業との間で争われます。

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震災から21世紀へ

 平成7年に兵庫県南部を襲った阪神・淡路大震災は、被災地全域に深い傷跡を残しました。激甚〔げきじん〕被災地の東端に位置する尼崎市は、武庫川以西に比較すれば相対的に被害の度合いは低かったものの、死者49人、負傷者7,145人をはじめとする大きな被害を受けました。旧城下町の一画であった築地地区のように、液状化を起こし、全面的な復興区画整理の施行が必要となった区域もありました。
 震災被害や、その前後の長期不況のもと、尼崎市の都市活力は停滞を余儀なくされ、困難な行財政運営が続いています。人口の流出・減少も続いており、平成2年には50万人を下回ります。その一方で、震災後のボランティア・ムーブメントをはじめ、市民自身によるまちづくりの取り組みやNPO法人の族生〔ぞくせい〕、地域コミュニティの見直しと再生といった、新たな社会構築につながる芽も生まれてきています。
 こういった時代の変化のなかで21世紀を迎えた尼崎市は、さまざまな都市課題の解決と新たなまちづくりに向けて、歩み始めていきます。

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