現代編第1節/戦後復興の時代3/戦後改革と民主主義の息吹き(佐賀朝)




 昭和20年(1945)10月11日、マッカーサー連合国軍最高司令官は日本の戦後改革の基本となる5大改革指令を発表します。そこでは、婦人の解放、労働組合の組織奨励〔しょうれい〕、経済の民主化などがうたわれており、これに沿って女性参政権のもとにおける選挙の実施、労組〔ろうそ〕の結成、農地改革などが実施されていきます。

政党の復活

 戦時体制が終わりを告げ民主主義が復活するなか、大政翼賛会〔たいせいよくさんかい〕の成立とともに解体されていた政党活動が息を吹き返します。昭和20年11月には日本社会党、日本自由党、日本進歩党が相次いで結党され、戦前には非合法であった日本共産党も、GHQの民主化指令により獄中から解放されたメンバーを中心に活動を再開します。進歩党は昭和22年3月に自由党の一部と合同して日本民主党となり、以後昭和30年11月の保守合同による自由民主党結党まで、自由党・民主党という保守2党の対立が続きます。
 こうした中央の動きに呼応して、尼崎でいちはやく政党を立ち上げたのは、戦前の無産運動の流れを汲〔く〕む人々でした。まず昭和20年11月25日、尼崎高等女学校において日本社会党尼崎支部結成演説会が開催されます。戦前の無産運動右派である社会民衆党・社会大衆党などに属し、市議・県議を務めた山下栄二が支部長となり、中間派・左派など多彩な顔ぶれが加わります。また日本共産党も昭和20年末には出屋敷に事務所を設け、組織活動を開始したと言います。
 一方、保守系では、昭和20年12月9日に結成された進歩党兵庫県支部に、戦前に県議や民政党尼崎支部長を務めた六島誠之助〔せいのすけ〕が政務調査会長として参加。おなじく戦前に市議・県議を務めた後藤悦治〔えつじ〕らが、21年3月に民主主義新党期成同盟を結成。やはり戦前に市議を務めた吉田吉太郎〔よしたろう〕も活動を再開し、22年12月17日に結成される自由党尼崎支部の顧問に就任します。こうして尼崎の保守政界は、六島・後藤ら民主党系と、吉田ら自由党系が並び立つ構図が自由民主党尼崎支部結成(32年9月28日)まで続きます。

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各種選挙の実施

 昭和21年4月10日、戦後初の衆議院総選挙が実施されます。女性参政権が実現した最初の選挙でした。大選挙区制により兵庫県は南北にわけられ、尼崎が属する定員11人の第1区では、公職追放により戦前来の有力政治家が出馬を断念するなか78人が乱立、投票の結果自由党4人、社会党4人、進歩党2人、無所属1人が当選。尼崎からは社会党の山下栄二が当選しました。全国的には自由党が第一党となり、党首鳩山一郎の公職追放などによって生じた「政治的空白」を経て、吉田茂が首相に就任します。
 昭和22年には、本節2「戦後初期の尼崎市政」でもふれたように、5月の日本国憲法・地方自治法施行に先だって、4月に国政選挙と地方選挙がいっせいに行なわれます。4月5日の自治体首長選挙に続いて、4月20日に第1回参議院議員選挙、25日には衆議院総選挙を実施。総選挙で自由党を破った社会党が、民主党・国民協同党と連立して片山哲〔てつ〕を首班〔しゅはん〕とする内閣を発足させます。総選挙では、尼崎市を含む兵庫第2区は定員5人に対して19人が乱立。結果は民主党3人・社会党2人が当選。尼崎からは民主党の後藤悦治と、社会党の山下栄二が当選しました。

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労働組合の結成

 昭和20年12月、労働組合法が公布され、翌21年3月に施行されます。続いて21年8月には、労働運動の全国組織として社会党系の日本労働組合総同盟(総同盟)と共産党系の全日本産業別労働組合会議(産別会議)が結成されます。
 中央における対立的な構図に対して、尼崎ではやや異なる動向が見られました。昭和21年4月16日に結成大会を開く総同盟尼崎地方協議会(尼地協、会長=山下栄二)は、その準備過程で2月に「労働戦線の統一」「民主戦線の統一」を決議しており、3月2日には尼地協と表裏一体の社会党尼崎支部が尼崎地方民主戦線即時結成懇談会を開くなど、政治的対立を越えた統一戦線が提起されていました。尼地協結成準備段階の3月には、すでに市内45労組2万人が加盟し、兵庫県下でも最大規模の組織状況と報じられました。

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労働組合運動の実情

 昭和20年から21年3月にかけて結成された、尼崎市内のおもな労働組合を、下の表に掲げました。成立の経緯にしたがって区分すると、尼地協の中心となった戦前来の活動家が組織した組合、あるいはその支援を得て活動未経験の人々が組織した組合、共産党系の影響力が強く、やがて産別会議の傘下に加わっていく組合、その他の中立的な組合などに分類できます。
 尼地協・社会党が戦線統一を標榜〔ひようぼう〕したものの、現実には共産党系との対立がありました。たとえば、市内最大規模の経営であった扶桑〔ふそう〕金属(現住友金属)鋼管製造所では、役付工主体の労組が福島玄〔げん〕らの働きかけにより昭和20年12月に結成され、尼地協に加盟しますが、組織化の過程では下級工・職員を組織しようとする共産党系の活動との競合が生じたと言います。
 なお尼地協とは別に、神崎・潮江地区の総同盟系労組と中立労組の連携により、神崎隣保〔りんぽ〕労働組合という地域連合体が昭和21年に結成されたことも注目されます。昭和25年10月結成の尼崎労働組合連合協議会へと継承され、その後長く連合体として存続します。


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労働組合を作る

 

 戦前来の活動家がいる久保田や阪神を除いて、どの工場も労組〔ろうそ〕を結成していいのか半信半疑だったといいます。また経営側を通して働きかけるので、管理職も含めた労組が作られることになりました。山下栄二は、昭和20年9月頃、のちに共産党阪神地区委員長となる須佐美〔すさみ〕八蔵とともに日本硝子〔ガラス〕にオルグ(組合組織化の働きかけ)に行ったときのことを、次のように回想しています。

 工場長にはワシも電話して了解をとっておいたから、工場の中にムシロを敷いてちゃんと用意しとった。勿論マイクなんかはないけどね。しかし人が来ていない。怖がってしまって全然来ていないんだ。そこで仕方がないから工場長のところへ行って、ワシの話は、会社のヒイキをしたり、労働者の方のヒイキをしたりする話ではない。公平な話をするからあんたも来て話を聞きなさい、あんたが来んことにはみんながよう来よらん、というて工場長を連れて来たんだ。そしたらみんながゾロゾロゾロゾロやって来たんだ。そういうような調子で組合を作っていった。
(『地域史研究』13−1−昭和58年9月−掲載 「戦後尼崎における労働運動の再建」より)

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メーデー

 国際的な労働者の祭典である毎年5月1日のメーデーは、昭和11年の2.26事件を機に禁止されていました。それが戦後復活した昭和21年の第17回メーデーは、各地で大きな盛り上がりを見せます。尼崎でも西長洲〔ながす〕の記念公園で開催され、雨天のため途中中止になったものの、1万人以上の参加が見られたと言います。
 下の写真は、少し時代を経た昭和25年の尼崎メーデーの様子。記念公園で開かれ約3万人が参加したというこの年のメーデーは、政党メッセージをめぐって会場が紛糾。さらには、折しも争議中の大谷重工第一労組と第二労組の隊列が衝突するなど、やや混乱したものとなりました。


昭和25年の尼崎メーデー
(杉本昭典氏提供写真)

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生産管理闘争

 労働運動が大きな広がりを見せる一方で、敗戦と戦災によって経営者側が生産意欲を減退させるなか、この時期の労働争議では「生産管理闘争」という特殊な戦術が生まれます。昭和20年末から21年4月にかけての阪神電鉄争議は、尼崎における戦後初期最大規模の争議であり、この「生産管理」が成功した典型例となりました。
 阪神電鉄は、大正11年(1922)に早くも談笑倶楽部〔クラブ〕という名称の労組が組織されるなど、労働運動の長い伝統を有する職場でした。戦前すでに指導者であった土田有間〔ありま〕の指導のもと、労働者ひとりひとりを説得する地道な取り組みにより、全従業員の約半分にあたる1,500人を組織して、昭和20年12月1日尼崎高等女学校において組合結成大会を開きます。これより翌21年4月にかけて、阪神労組は賃金3倍値上げ、越年資金獲得、週休制など勤務条件の改善、経営民主化のための経営参加などを求めて交渉を重ね、一定の譲歩を勝ち取りつつ、会社幹部の退陣を求める経営民主化闘争へと次第に闘いはエスカレートしていきます。その背景には、会社側の組合に対する不誠実な対応や、戦前から職制の圧力に苦しみ続けた組合員たちの怒りがあったと、阪神電鉄労組発行の『闘いの十年』(昭和31年)は指摘しています。
 昭和21年4月、経営陣が退陣要求を蹴〔け〕ったため、組合は5日から9日間の経営管理を強行。電車運行など会社の業務全体を掌握します。その背景には、戦後間もない経済混乱期にストにより交通を停止させることへの懸念や、部課長全体が加わる企業組合であったため経営管理を実施しやすいという事情がありました。
 阪神労組の闘いは、各私鉄・市電の労組をはじめ、外部からの盛んな支援もあって、社長・重役退陣、危機突破資金支給という全面勝利に終わります。組合結成以来の一連の闘争を通じて、8時間労働制や産前産後・生理休暇などの基本的な労働条件を確立させたことが、労働者たちにとっては何よりの成果でした。
 このほか、尼崎市内では日本造機工業労組や関西ペイント職員労組などが、阪神と同時期の争議に際して生産管理闘争の戦術を採用しています。

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2.1ストへ

 全国的に広がる生産管理闘争に対して、昭和21年5月に成立した吉田茂・自由党内閣(第一次)は6月に「社会秩序保持声明」を発表、生産管理闘争を違法として禁止する方針を明示する一方で、労働関係調整法の制定に着手します。同法は争議の予防・抑制をめざすものであるとして、官公労の組合を先頭に激しい反対運動が展開されますが、昭和21年10月、政府は労調法施行を強行します。ときを同じくして、産別会議による、民間労組賃上げ闘争をはじめとする「10月闘争」が高揚。賃金闘争中の日本電気産業労働組合協議会(電産協)は停電ストを指示し、尼崎でも3火力発電所の日本発送電従業員組合が、10月19日以降数回にわたりこれを実施します。
 「10月闘争」による民間労組の賃上げ獲得に続いて、11月には全官公庁共同闘争委員会(全官公庁共闘)が結成され、賃上げを含む統一要求を提出しますが政府はこれを拒否。社会党・総同盟・産別会議などによる吉田内閣打倒の動きが強まり、翌昭和22年の年頭の辞において吉田首相がこうした動きを「不逞〔ふてい〕の輩〔やから〕」と呼んだことから闘争はヒートアップ。1月15日には総同盟・産別会議などによる全国労働組合共同闘争委員会(全闘)が結成され、これらの動きの総決算として、2月1日のゼネスト決行が決定されます。
 尼崎でも昭和21年11月頃から郵政や教員など官公労の闘争が展開されており、12月17日には全国各地での内閣打倒国民大会に呼応して、総同盟尼地協と産別系労組の共催による吉田内閣打倒労働者大会が、尼崎高等女学校において2千人規模で開催されます。さらに、産別系・総同盟系が合同した尼崎地方労働者会議準備会がつくられ、ゼネスト直前の昭和22年1月28日には難波〔なにわ〕国民学校において「生活権獲得内閣打倒労働者大会」を開催。18組合1,500人が参加し、吉田内閣打倒や地区共同闘争委員会結成促進を決議しています。このように、尼崎においても運動が大きな盛り上がりを見せるなかで迎え2.1〔に・いち〕ストでしたが、事態を憂慮〔ゆうりょ〕したGHQによる実施直前の禁止命令により、やむなく中止という結果となりました。
 吉田内閣打倒をめざす一連の闘争においては、中央における総同盟と産別の共闘と同様に、尼崎でも両派の共闘が実現します。しかしながら、「10月闘争」以来の流れのなかむしろ対立が深まり、昭和22年8月26日、総同盟尼地協を離脱した労組などを中心とする産別尼崎地区会議が結成されました。

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農地改革の実施

 農地改革は、地主制が軍国主義の社会的な基盤をなしたと見るGHQの意向を背景に、すすめられた改革です。地主が所有する小作地の、小作人たちへの開放(解放)を目的としていました。
 昭和20年12月の国会において政府の第一次改革案が成立しますが、対日理事会の検討案にもとづきGHQが修正を勧告、それを受けた第二次法案が昭和21年10月に可決成立します。その具体的内容は、(1)在村地主の小作地保有限度平均1町歩(北海道は4町歩)、それ以上の小作地および不在地主の小作地は強制買収、(2)小作地を含む所有限度は平均3町歩(北海道12町歩)、(3)小作料の低額金納化、(4)農地委員会の構成比率は小作5・地主3・自作2とする、というものでした。兵庫県では(1)の在村地主保有限度6反、(2)の所有限度1町8反など、さらに厳しく限度が設定されました。
 昭和20年当時、園田村を除く当時の尼崎市域総耕地面積676町歩の7割強が小作地でした。同年の園田村の数字は得られませんが、昭和16年には総耕地291町歩の66%とほぼ尼崎市域に近い小作地率でした。昭和21年12月に全国で農地委員選挙が実施され、尼崎市・園田村にも各農地委員会が発足。同委員会は農地台帳を作成し、小作地買収計画を立案。買収・売渡価格は尼崎市の場合1反平均1,145円となり、激しいインフレのもとでは無償払い下げに等しいものでした。
尼崎市・園田村で対象となった地主の筆頭は、明治期以来の大不在地主である尼崎〔あまさき〕伊三郎でした。神崎土地株式会社がこれに次ぎ、ほかに日本発送電や阪神・阪急など、事業用地として土地を保有する法人が上位を占めました。その一方で、農地買収の対象となった大多数は、所有地1町歩余りの小地主たちであったと考えられます。


 この文書は、市内常光寺の土地が区画整理用地であるため買収・売り渡しを取り消すことについての、市農業委員会長から阪本勝〔まさる〕県知事宛ての依頼文書と、区画整理の換地証明書です。
 土地所有者の尼崎〔あまさき〕伊三郎(2代目)は、市内大高洲〔たかす〕出身で海運業で財をなした初代の跡を受け継ぎ、尼崎や近隣の土地180町歩以上を小作地として経営した、この地域最大の不在地主でした。

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異議申し立てと除外指定

 農地改革の過程では、各地で地主側からの異議申し立てが行なわれています。戦前から都市化が進み、農地と市街地が隣接する尼崎市域においては、工場用地や宅地、道路・鉄道用地などに予定されていた農地も多く、非農地であるとする異議申し立てがしばしば見られました。
 自作農創設特別措置法の定める、区画整理用地等買収除外規定の適用を求める地主側の運動も展開され、昭和23年には六島市長が近隣市・町長とともに、阪神地方の農地買収全面除外を政府に陳情〔ちんじょう〕しています。同年9月には、尼崎市戦災復興特別都市計画地区など市内18か所が買収除外地に、また尼宝〔にほう〕線沿いなど11か所が売却保留地に指定されました。
 こうした紆余曲折〔うよきょくせつ〕を経て、市域の農地改革は昭和27年までに完了。買収面積は全耕地面積の約3分の2にのぼり、地主制は基本的に解体されました。

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