現代編第1節/戦後復興の時代4/民主化の後退と社会的亀裂(佐賀朝)




占領政策の転換

 日本の占領と民主化を推進してきたアメリカは、ソ連をはじめとする東側陣営との対立が深まるなか、昭和22年(1947)3月のトルーマン大統領によるトルーマン・ドクトリンの発表などを通して、共産主義に対抗して自由主義経済体制を維持・強化していく方針を打ち出します。東アジアにおいても中国の国共内戦や朝鮮半島での南北対立が激化するなか、昭和23年1月にはロイヤル陸軍長官が、日本を共産主義への防波堤と位置付け、早急な経済的自立をはかる方向での政策見直しを表明します。
 アメリカの占領政策は当初から、戦後アジアでの共産主義との対抗という枠内で日本の民主化を推進するという立場であり、その点では基本方針が変更されたわけではありません。しかしながら、財閥解体・賠償政策の見直し、公職追放の緩和など、「逆コース」と呼ばれる民主化の後退が生じたのも事実でした。こうした軌道修正の結果、民主化のなかで生まれた諸潮流と占領政策との間には、深い亀裂が生じていきます。

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朝鮮人学校問題

 そうした亀裂のなかでまず最初に大きな問題となったのが、朝鮮人学校閉鎖問題でした。
 敗戦後、在日朝鮮人の間では、民族のアイデンティティを求めて朝鮮語の講習会が開始されます。敗戦時の在日朝鮮人が約4万5千人と推定される尼崎市内では、昭和21年春頃には守部〔もりべ〕・常松〔つねまつ〕・大島(今北)・浜田(崇徳院〔すとくいん〕)・出屋敷・大庄〔おおしょう〕(西)・長洲〔ながす〕・立花(三反田〔さんたんだ〕)・園田西部(塚口)・同東部(小中島)に相次いで朝鮮人学校が設立され、22年からは初等学校と呼称していました。昭和23年、うち2校が借用していた小学校の教室が、GHQの命令により使用できなくなったため、在日本朝鮮人連盟(朝連)は市内初等学校を整理し、尼崎(西)・大島(今北)・武庫(守部)・常松・立花(三反田)・園田(小中島)の6校となりました。昭和24年9月の段階で、23教室・生徒数871人・教員数23人という規模となっています。
 昭和23年1月24日、政府は「朝鮮人設立学校の取扱いについて」という通達を都道府県に出し、日本の公立私立学校に通うか、または朝鮮人学校が私立校等の認可を受け、朝鮮語教育は課外に回すよう指示しました。自治体と朝連の折衝〔せっしょう〕が続きますが、4月には学校閉鎖命令が出され、神戸・大阪では朝連側の抗議行動と自治体や警察・占領軍との間に衝突が生じます。「阪神教育事件」あるいは「4.24阪神教育闘争」と呼ばれるこの衝突により、多くの朝鮮人が検挙されますが、朝連側の抵抗により学校閉鎖は阻止されます。
 しかしながら、翌昭和24年9月、政府は団体等規制令にもとづき朝連に解散を命じ、学校閉鎖を強行します。10月19日、兵庫県は朝鮮人学校に対して改組命令を出し、学校側は朝連系の教員をいったん退かせる一方で、抗議と交渉を重ねます。県の閉鎖方針に反対する六島誠之助〔せいのすけ〕市長のもと、尼崎市では11月に朝鮮人児童を武庫小学校に仮収容しますが、12月、日本語がわからないとして朝鮮語の授業を求める児童200人余りが騒ぎを起こし、乱暴をはたらくという事件が発生します。結局12月4日、六島市長が市の責任による仮分校開設と朝鮮人教員採用を約束します。
 こうして尼崎市では、朝鮮人学校5校が市立校分校という形で存続し、民族教育も事実上容認される結果となりました。この措置は全国に先駆けてのもので、その後県内では伊丹・明石・高砂で、県外では愛知・神奈川などで同様の措置がとられることになります。
 なお、これらの分校は昭和40年度まで存続したのち、兵庫朝鮮学園朝鮮初級学校へと改組されました。

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ドッジ・ライン

 昭和23年10月、中道政権の芦田均〔ひとし〕内閣が総辞職し、第二次吉田茂内閣(民主自由党)が成立。「民主化」から「経済安定」への政策基調転換がいっそう明確となるなか、政府は12月に経済安定九原則を発表し、総予算均衡〔きんこう〕、徴税〔ちょうぜい〕強化、経済復興・輸出増加のための資金・資材の優先配分、これらを通じた単一為替〔かわせ〕レートの実現などを打ち出します。
 翌昭和24年1月の総選挙で民自党が躍進し第三次吉田内閣が成立すると、3月にはGHQ財政顧問ドッジよる「ドッジ・ライン」が発表され、「九原則」をさらに徹底する予算均衡・インフレ抑制方針が示されます。こうして、緊縮財政と賃金・物価抑制のデフレ政策がとられたため日本経済は不況となり、民間企業の賃上げ抑制・人員整理などを引き起こします。賃金の遅配〔ちはい〕・欠配〔けっぱい〕も相次ぎ、中小企業では倒産の嵐が吹き荒れるなか、尼崎においても労働争議が頻発〔ひんぱつ〕します。
 後掲の大谷重工争議は、そうしたなかで起こった最大規模の争議であり、こののち昭和20年代後半から30年代初頭にかけて尼崎の鉄鋼各社を襲った、一連の鉄鋼合理化争議の皮切りとなりました。

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治安問題と公安条例

 各地で頻発する労働争議、政権打倒をめざす2.1〔に・いち〕ゼネストのこころみ。GHQにとっては、こうした「行き過ぎた民主化」の是正と治安の回復が必要でした。阪神教育事件が発生した昭和23年4月以降、GHQは自治体に対して、治安維持のための条例検討を指示します。7月には大阪市が、デモ・集会の事前届出と罰則を定めた公安条例を制定。これが、各地での条例制定の先駆けとなりました。兵庫県は県議会での社会党などの反対により条例制定を見送り、昭和24年5月、県内市長・警察局長を集めて制定を働きかけます。
 尼崎市では、産別会議や総同盟尼地協などが激しく反対。六島市長自身も、条例は新憲法の精神に反するとの立場から反対であり、制定に意欲を見せる市警察局長を押さえて、条例案の市議会提案を見送りました。こうして尼崎市においては、公安条例が日の目を見ることはありませんでした。


 公安条例が問題となっていた頃の、尼崎市警察局・東警察署(城内)前での労組〔ろうそ〕による渦巻きデモ。昭和25年の第21回メーデーの際のデモ行進。幾旒〔りゅう〕もの全日本金属大同鋼板分会旗をかかげて押し寄せる労組員たちを、署員が階段上から見守っているのがわかります。(杉本昭典氏提供写真)

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闇物資をめぐる混乱と取り締まり

 当時の行政を悩ませた事案のひとつに、闇〔やみ〕物資・闇経済の問題があります。背後にはしばしば暴力団や、当時「第三国人」と呼ばれた戦勝国民がいたことが、問題をさらに複雑にしていました。
 ときにはこういった人脈と警察が癒着〔ゆちゃく〕しているケースもありました。たとえば、後述する尼崎市警察問題をめぐる疑惑や不祥事のひとつは、台湾人密輸業者を市警幹部が意図的に見逃していたのではないか、というものでした。
 密造酒の摘発と取り締まりも、当時の大きな社会問題のひとつでした。下の写真は昭和24年2月、尼崎市内において大規模密造を行なっていた朝鮮人集落を一斉検挙した際に撮影されたもの。植民地支配から解放されたものの、戦後の混乱に加えて本国の南北分裂により、少なくない朝鮮人が日本にとどまり、苦しい生活を送っていました。
 密造されていた酒は、配給酒と遜色〔そんしょく〕ない品質で値段も安く、飛ぶように売れたと言います。

中央が蒸留器、右側が冷却用のドラム缶


密造酒に貼られていた、灘酒を模したラベルと証紙
写真はいずれも『集団犯罪の捜査に関する実証的考察』(検察研究所、昭和26年)より

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労働戦線の再編

 政策転換のなか、労働戦線もまた再編されていきます。2.1ストが中止された昭和22年の後半以降、産別会議内に共産党系に反対する産別民主化同盟(民同)が生まれ、同派が勢力を伸ばすにつれ、尼崎においても産別尼崎地区会議を脱退する労組〔ろうそ〕が相次ぎます。こうしたなか、産別にかわる新たな左派系組織をめざして、昭和24年8月19日、尼崎地区全労働組合協議会(全労協)が結成されます。産別系の鉄鋼5社労組(大同鋼板・尼崎製鋼・日亜〔にちあ〕製鋼・尼崎製鈑・大谷重工業)と電産・阪神電鉄・旭硝子〔ガラス〕の各労組が中心で、翌25年8月現在の加盟が22組合1万4千人余りと、尼崎最大の連合体でした。なお全労協結成を受けて、その役割を終えた産別尼崎地区会議は、昭和24年9月6日に解散しています。
 一方中央では、民同派を中心に新たな統一組織結成が進められます。その結果、昭和25年7月、産別会議内の民同派組合に加えて総同盟系の組合も加わり、日本労働組合総評議会(総評)が発足します。
 尼崎においては、朝鮮戦争やレッド・パージ、電産争議・大谷重工争議の敗北といった流れのなか、組合の主導権が民同派に移行するにつれて尼崎全労協の脱退が相次いだため、昭和27年10月の総評尼崎地方評議会結成を機に、尼崎全労協は解散しました。

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レッド・パージ

 民主化政策転換のなか、GHQの指示により、各職場から「共産主義者とその同調者」の解雇・排除が行なわれます。兵庫県では、まず昭和24年10月、県教育委員会が教員25人に退職を勧告。尼崎でも4人が対象となります。これが事実上のレッド・パージの始まりでした。尼崎の4人はいずれも退職を拒否して解雇撤回を申し入れ、父母の支援も得て地域ぐるみの反対運動を展開しますが、裁判に訴えた1人を含む全員が、職を失う結果となりました。
 昭和25年1月には、日本共産党が各国共産党の情報組織であるコミンフォルムからの批判を受けて内部分裂し、主流派は反米武装闘争方針を掲げて非合法活動に入ります。さらに6月には朝鮮戦争勃発など緊迫するなか、GHQと政府は共産党勢力への対策を強化し、レッド・パージもいよいよ本格化します。7月のマスコミにおけるパージから始まり、産別会議の主力・日本電気産業労働組合(電産)に波及していきます。
電産ではすでに民同派が中央常任委員会を掌握しており、昭和25年7月、地方組織に対して共産党員排除を前提とする組合員再登録を指示します。尼崎では第一・第二・東の3発電所にそれぞれ分会があり、尼東を除く2分会では多くがこの再登録に応じました。これを見た経営側は8月に全国一斉の辞職勧告を発令。尼崎の3発電所では60人がその対象となり、一部で地労委に提訴するなどの抵抗も見られましたが、全体としては散発的なものにとどまりました。なお、このときパージされたなかには、のちに尼崎労働者映画協議会の事務長として尼崎の映画サークル隆盛を支えた北村英治〔えいじ〕や、阪神商工共済会を作って中小商工業者の利益と権利を守る活動に従事した上村好雄・塩崎博など、尼崎の各分野で活躍した人材が含まれていました。
一方、尼崎工業経営者協会は10月3日、労働省の事務官を招いて懇談し、レッド・パージは非合法活動による企業破壊から企業を防衛するため経営者の自主的措置として実施する、共産党員の信条を理由に排除するのではない、などと法的論点を確認。こうして準備をととのえ、旭硝子、阪神電鉄、新扶桑〔ふそう〕金属、塩野義〔しおのぎ〕製薬、尼崎製鋼、大同鋼板、日亜製鋼などのパージが10月中に相次ぎます。これに対する労働者側は、共同闘争を申し合わせていた全日本金属兵庫支部が解雇者の退職金など条件闘争に移行した例に代表されるように、全体的にレッド・パージへの反応はにぶく、撤回を求める運動は組織化されませんでした。
こうしたなかで、パージ後、阪神電鉄労組や私鉄総連・総評などの支援を得ながら、ねばり強い法廷闘争を続けた阪神電鉄の被解雇者たちの闘いは注目されます。二度にわたる解雇無効判決ののち昭和40年に調停和解が成立。パージによる解雇を事実上撤回させ、和解時点での依願退職という形で決着を見ました。
〔参考文献〕  尼崎レッド・パージ問題懇談会編『回想・尼崎のレッド・パージ』(耕文社、平成14年)

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尼崎市警察問題

 GHQは戦後改革の一環として警察制度の民主化を掲げ、昭和22年9月、国家警察から自立した自治体警察の創設を日本政府に指示しました。同年12月に警察法が公布され23年3月施行。尼崎市にも市警察署が誕生し、7月にはそれまでの市内1署から東・西・北の3署体制に増強されます。
 こうして新たに発足した尼崎市警察でしたが、財政難に加えて初代警察長の選任でつまずきます。市警発足・3署体制への増強にあたって、市公安委員会は警察庁の推せんする人材を誘致し、もって国家警察との連携も密にしたいとすでに人選も終えていました。しかしながら、市議会有力会派から現尼崎署長中島弥平の昇任以外は認めないとの強力な横槍が入り、やむなく公安委員会側が折れて中島警察長就任で決着します。
 この警察長人事は、六島市長もまた公安委員会と同意見だっただけに、のちのち対立のしこりが残る結果となりました。なお、昭和23年12月には市警本部が警察局に改組され、警察長は警察局長となりました。
 2年後の昭和25年、市警察と市議会双方の内部対立などを背景に、尼崎市警の乱脈ぶりが次々にあきらかとなり、「尼崎市警察問題」として全国的な注目を浴びることになります。2月から5月にかけて、複数の市議の逮捕や中島警察局長の罷免、地方自治法第百条にもとづく警察特別調査委員会の設置など、尼崎市政界全体をゆるがす大事件に発展しました。市警幹部と密輸業者の癒着〔ゆちゃく〕や、捜査文書の改竄〔かいざん〕疑惑などもあきらかとなり、市民の批判の声が大きく高まります。市議会会派の琴政会〔きんせいかい〕が4月15日に開明小学校で警察粛正〔しゅくせい〕を求める市民集会を開いたほか、5月29日には尼崎全労協が市会解散要求市民大会を開催。出屋敷駅前に約2千人が集まり市議会の即時解散を決議するなど、市民の世論は市警・市議会双方に対して批判的でした。
 結局、この市警察問題は、6月に警察局長が交代したのち、9月のジェーン台風による被害と混乱のなか、なし崩し的に収束しました。数か月におよんだこの騒動は、市政の乱脈ぶりと地域のボス支配が存在するもとでの警察民主化の困難さを、白日のもとにさらけ出す結果となりました。
 昭和29年6月、社会党などの反対を押し切って、市町村警察を廃止し都道府県警察に一本化する新警察法が制定され、7月に施行されます。こうして自治体警察は、6年余りの短い歴史を終えました。尼崎での自治体警察の歴史は、占領政策の登場と転換のもとでの地域における民主化の試練を、象徴するものだったと言えるでしょう。

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大谷重工争議と元力士のワンマン経営者

 尼崎の鉄鋼会社のひとつ、西高洲〔たかす〕町に立地する大谷重工業尼崎工場は中堅電炉〔でんろ〕・圧延〔あつえん〕メーカーでしたが、尼崎の他社に比べて設備更新が遅れがちでした。経営体質も古く、危険な職場に悪い待遇と、労働者たちは不満を募らせていました。
 昭和24年の越年資金獲得闘争では、鉄鋼他社が横並びで1人7,000円を獲得したのに対し、大谷はねばって4,700円。その後労組側は待遇改善を要求し、会社側は労働協約を破棄。昭和25年3月にはストに突入し、労組が工場を占拠します。
 大谷の社長は大谷米太郎〔よねたろう〕。尼崎工場を預かるのは弟で専務の竹次郎。ふたりは元力士で、米太郎は一代で会社を築いた立志伝中の人物でした。
 兄同様ワンマンの竹次郎は、工場経営の近代化を怠る一方で、土地投資や美術品収集に会社の儲〔もう〕けをつぎ込みます。そのコレクションは没後私邸とともに西宮市に寄贈され、大谷記念美術館となったほどでした。
 竹次郎は、会社の相撲部育成にも力を入れました。学生相撲の強者〔つわもの〕をこぞって集め、昭和30年代には実業団最強とうたわれます。相撲部は、労使交渉の際には竹次郎のボディーガード役も務めたと言います。


大谷尼崎工場の鋼塊〔こうかい〕鋳込〔いこ〕み作業、昭和29年『防潮堤完成記念栄える産業博覧会AMAGASAKI』より

 争議は、工場奪還をもくろむ会社側の下請け作業員が、日本刀やバットを手に組合員のピケットラインを襲うという、凄絶〔せいぜつ〕なものとなります。一方、戦闘的な尼崎の鉄鋼労組のなかでも最先鋭と言われた大谷労組指導部は、鉄鋼労組など連日数千人の支援を得て工場奪還を断固阻止します。
 しかし展望のない闘いぶりに徐々に支援も遠のき、5月には神戸地裁の裁決にしたがい工場占拠を解くも、会社は裁決を無視して組合幹部を解雇。結局6月、解決金と引き替えに解雇を受け入れ、組合の完全敗北に終わりました。

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