現代編第3節/石油危機から震災まで2/尼崎における「保革」対立(辻川敦)




尼崎の革新陣営

 工業都市であり労働者の町である尼崎は、戦前すでに無産政党運動が盛んであり、戦後もその流れが受け継がれます。国政レベルでは、小選挙区比例代表制に移行する平成8年(1996)まで、衆議院議員選挙において尼崎市は兵庫2区に属していました。1970年代半ば以降、2区の定員5人はおおむね自民ないし保守系が2議席、社共の革新が2議席、公明1議席となっており、昭和54年(1979)と58年には自民1、社会2、共産1と、革新議席が上回るケースもありました。このように、政権政党の自民党に拮抗〔きっこう〕する勢いであった2区の革新陣営を支えたのは、最大票田である尼崎の革新支持票でした。事実、昭和51年から平成2年までの6回の総選挙において、尼崎市内の得票数を比較すると、社共の革新票合計は常に保守系候補の獲得票を上回っていました。

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1970年代後半以降の尼崎市長選挙


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野草「革新」市政の政治基盤

 この国政レベルの政治動向は、市政においても同様に表れます。昭和53年の市長選挙において、前任の篠田隆義〔しのだたかよし〕市長の後継者で元助役の野草平十郎〔へいじゅうろう〕候補は、坂井時忠知事が強力に推す海江田鶴造〔かいえだつるぞう〕候補を破り、尼崎革新市政を守ります。しかしながら、コラム「尼崎を二分した市長選挙」においてくわしくふれるとおり、推せん政党の対比から典型的な保革対立と見えるのとは裏腹に、野草「革新」市政はかなりの程度地元保守勢力に基盤を置いていました。尼崎の保守陣営は、野草与党と野党に分裂し、そのことが革新市政の誕生につながったとも言えます。野草市長の2期目以降の選挙において、自民党が党籍を持つ六島博郎〔ひろお〕・小西ヨシ子といった候補を公式に推せんできなかった背景には、こういった尼崎保守政界の事情がありました。

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六島保守市政の実現へ

 こういった流れが大きく転換したのが、3期続いた野草市政の後を革新・中道・保守の3候補が争った平成2年の選挙でした。
 当初、マスコミ報道において優勢と伝えられたのは、前尼崎都市開発社長で12年間後援会事務局長として野草市長を支えた木和田武司〔きわだたけし〕候補でした。社会・共産の推せんを受け、野草市政の後継者として選挙戦を戦います。一方、野草市政下に教育委員長を務めた経歴を持つ内藤尚武〔ひさたけ〕候補も野草市政の継承を訴え、公明・民社に保守系市議も加えて、市議定数52のうち30人と過半数の支持を得る勢いを示しました。なお、野草前市長自身は明確な後継指名をせず、選挙戦において特定の候補を応援することはありませんでした。
 選挙は三つどもえの激戦となり、人口の減少や経済の落ち込みといった停滞傾向にある尼崎をどう活性化させるかという重要な選挙のはずでしたが、投票率38.49%と、市民の関心はいまひとつでした。そんな選挙を制したのは、都市活力停滞の原因は革新市政にあるとし、保守市政の実現を訴えた六島誠之助〔せいのすけ〕候補でした。野草市長に二度破れ、初代公選市長であった亡き父と同じ誠之助を襲名して挑戦し続けた六島候補執念が、戦前の予想を覆〔くつがえ〕して勝利を呼びこんだと言えます。今回の選挙に先立つ二度の市長選が、六島候補の知名度アップにつながったと報じられました。

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市議会の解散・出直し選挙

 改革を訴えてスタートした六島市政でしたが、市議会に明確な市長与党議員は少なく、市長答弁取消が相次いだことなどもあり、議会との間にはぎくしゃくとしたものがありました。そんな六島市政の2年目、市議会をゆるがすできごとが起こります。いわゆる「市議会出張旅費問題」です。
 ある保守系市議が行政視察出張旅費を不正受給したのち、返却していた事実が、平成4年9月30日に発覚したことが発端でした。市議会から辞職勧告を受けたこの市議は、市議会全体にわたって不正出張が事実上の慣行となっていた実態をマスコミに暴露します。以後11月にかけて、議会を追及する声は激しさを増し、議員自身からの告白もあって、各会派とも徐々に出張旅費受給の実情を公表せざるを得なくなりました。その結果、行政視察の実態のない、観光や議員同士の懇親を目的とした出張旅行などが横行していたこと、その際議会事務局が復命書作成を代行する事例もあったこと、さらには驚くべきことに、こういった実態が全会派・全議員に及んでいたことがあきらかとなりました。この間、市民グループが詐欺容疑などで全議員を告発(平成7年に不起訴処分確定)。議会には連日抗議行動の市民が詰めかけ、職員ともみ合う様子が全国に報道されるという事態となりました。
 こうしたなか、12月議会は公文書公開条例改正案を可決し、平成元年までさかのぼって出張関係を含む市議会文書の公開を決め、翌平成5年2月には外部委員による「議員行政視察等実態調査委員会」が設置されます。澤田嘉貞・関西大学法学部教授を委員長とする同委員会は、各議員からの事情聴取などの結果、5月に報告書を提出。平成3・4年度の視察計326件のうち8割以上の269件を全部または一部不適切な出張と判定し、議会の自主解散を勧告しました。
 結局5月25日に最大会派の明政〔めいせい〕会(保守系)所属議員14人が辞職、残りの議員全員の賛成により議会は自主解散しました。これを受けての出直し選挙(6月27日投票)は、定数52に対して89人が立候補し、投票率は前回を7.4%上回る56.4%と市民の関心も高く、結果は前職25人のうち17人と、新人34人・元職1人が当選。新生議会は大きく様変わりします。出張旅費問題の反省を踏まえた議会改革の検討も始まりますが、その後の改革は必ずしも順調にすすまなかったと、問題発覚以来の一連の様子を取材した記者たちの共著『実録市民VSカラ出張議会』((株)エピック、平成6年)は指摘しています。「(出張旅費は)議会事務局がどうぞ使って下さいというから使ったまで、構造的欠陥だった」(同書)と考える前職議員たちの一部と、そうでない議員の間の溝は埋まらず、ぎくしゃくとした議会運営が続いたことは否めません。

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平成5年6月27日実施、市議会出直し選挙の候補者ポスター


 地域研究史料館が収集したもの。史料館では各選挙ごとに、こういったポスター類を収集しています。なお、この選挙におけるポスター掲載候補以外の立候補者は次のとおりです。
荒木伸子、北和子、木村末彦、小西ヨシ子、高木信夫、竹原利光、中野清嗣、西尾秀文、畠山郁郎、平山茂樹、福岡徳雄、藤原軍次、細田政一、三木宏、森和夫、森茂子、横谷勝嗣、吉田義治

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「保革」対立の終えん

 議会内の対立と同様に、市長と議会の間の溝も埋まることのないまま、六島市政は2期目に向けて市民の審判を仰ぐことになりました。六島市長は自民党の推せんを受けますが、従来の市長選と同様に対抗馬で元収入役の宮田良雄候補を押す保守系市議も多く、結局六島候補は敗れ、ふたたび市幹部出身市長が市政を預かることとなります。
 ただし、宮田市長は社会党の推せんを得たとはいえ、その支持政党は中央政界の新党ブーム・政界再編の流れを受けて変化しており、もはや篠田・野草と継承されてきた「革新」市政の単純な復活ではなく、時代を反映した新たな性格の市政と評価できます。その意味でも、野草市政から六島市政への転換が、尼崎における「保革」対立終えんにつながったと言えるでしょう

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