現代編第2節/高度経済成長期の尼崎3コラム/国道43号(辻川敦)

 「開通当時はさほど振動や騒音もなく苦情はなかったといってよい。中央分離帯には樹木や草花が植えられ、子どもたちの遊び場となり、夏の宵には床几を出して夕涼みする光景も見られ……日本一の43号線沿いに住んでいることを誇る声さえあった」
 のちに国道43号線道路公害訴訟のシンボル的存在となる、森島千代子さんの回想です(『コスモスの甦る日まで』より)。兵庫県内の国道43号が開通した昭和38年(1963)当時、やがてこの道路が長く沿道住民を苦しめることになると予想した人はごく少なかったのでしょう。この国が、高度成長とモータリゼーションへの道を、ひた走りに走り始めた頃のことでした。

新阪神国道計画

 道幅がせまく、自動車のすれ違いもままならぬ旧国道(中国街道)にかわって、阪神間の東西幹線道路として阪神国道(現国道2号)が開通したのは、昭和元年のことです。これにより、交通の停滞が緩和されますが、昭和10年代に入ると交通量が徐々に増大し、同時に沿線市街化がすすむなか、阪神国道は近隣街路としての性格を増していきます。
 やがて、軍需生産増大が要請されるなか、臨海工業地帯の運輸網整備は急務となり、新たな国道建設を求める声が強まります。沿線市町村の長や議員らが昭和16年2月に結成した新阪神国道期成会の計画書によれば、当時地元からは、臨海部を横断する海岸線と、阪急電鉄と東海道線の中間を通る山手線という二つのプランが提案されていました(後掲の図参照)。その後、地元市町村、財界から国・県への陳情〔ちんじょう〕が続きますが、戦時下においては道路建設の余裕はなく、実現は戦後に持ち越されます。

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戦後の街路計画見直し

 敗戦後、戦災復興が始まるなか、阪神間の各自治体は復興都市計画を立案し、戦前の街路計画を見直します。その計画において、第二阪神国道として位置付けられたのは、海岸線でも山手線でもなく、阪神電鉄の南に沿って旧市街地を結ぶ浜手幹線計画、つまり現在の国道43号のプランでした。昭和21年5月には計画路線が決定。兵庫県内においては早くも同年九月、土地取得が開始されます。
 尼崎市が立案した復興街路計画においても、整備すべき東西道路として、幅27mの山手幹線・海岸線とともに、幅50mの浜手幹線が盛り込まれていました。昭和21年9月には戦災復興土地区画整理事業が決定され、浜手幹線沿線では東本町〔ほんまち〕、城内の一部、西本町の東部が対象区域に含まれます。これ以外の予定地は昭和31年4月決定の浜手土地区画整理事業の対象とされ、用地取得がすすめられました。
 この間、昭和27年7月には関係自治体による第二阪神国道建設促進連盟が結成されるなど、地元からも早期実現を求める声が高まります。これを受けて昭和32年10月には工事着工。34年4月には二級国道から一級国道43号へと昇格し、38年1月兵庫県下のうち18.2qが開通。45年3月には、大阪市内を含む全線が開通しました。


兵庫県内開通後間もない国道43号
昭和39年頃、兵庫県発行絵葉書より


国道2号(阪神国道)、国道43号および、山手・海岸の計画路線

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路線決定の経緯

 尼崎市域における街路計画は、昭和4年の都市計画兵庫地方委員会による計画決定に始まります。15路線の新設または拡幅〔かくふく〕を決定したこの計画において、東本町から旧城下を経て出屋敷を北上、西進して大庄〔おおしょう〕村西新田に至る旧国道(中国街道)の幅22mへの拡幅が予定されていました。これがいわば、国道43号計画の原型と言えるでしょう。
 しかしながら、さきにふれたように、戦前において地元が新阪神国道として要望していたのは、むしろ山手線と海岸線でした。旧国道の路線に比して、いずれも用地取得にともなう居住者や事業者への影響が少なく、地元がこの路線を望むのは当然と言えます。ではなぜ戦後復興計画のなかで、これらよりも国道43号の路線が最大幅の幹線とされたのでしょうか。
 43号の建設経緯を述べた『第二阪神国道工事誌』は、この路線が戦前から計画されており、また阪神間のこの沿線一帯に戦災被害が集中したと述べるのみで、その理由を明確にしていません。一方、尼崎旧城下の本町通においては、後に国道43号となる場所が戦時建物疎開〔そかい〕により撤去されていたため、道路建設のため意図的に疎開地としたのではないかと言われていました。

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戦時建物疎開と都市計画道路

 このことを解き明かしたのが、戦争体験や公害史などさまざまな分野の地域史に取り組んだ故横山澄男氏の研究でした。建物疎開施行区域が、旧国道をはじめ戦前における複数の都市計画街路予定路線と一致していることを、地図の上で実証的にあきらかにしたのです(『ベイエリアは誰のものか』所収「国道四三号線・阪神高速と尼崎」)。
 旧城下の本町通商店街は、戦前には阪神間随一と言われるほど栄えた目抜き通りでしたが、昭和19年の建物疎開により、商店街南側の大部分の店舗が撤去されました。加えて戦災被害もあり、戦後は都市計画道路用地に指定されたため、現地での商店街復興をあきらめた商店主たちは、阪神尼崎駅北西の現中央商店街の地に新たな商店街を復興させたのでした。なお、疎開で建物が壊された跡に国道が通された例は、尼崎市以外でもありました。国道に限らず、各地で疎開跡地が道路敷などの公共用地に転用されています。
 おそらく、戦時疎開という名目がなければ、繁栄する商店街をつぶして国道を通すことは不可能だったはずです。そしてこのことにより、旧城下の本町通は消滅し、歴史的景観が失われ、市域南部は国道の南北に大きく分断されてしまいました。さらに、当初は交通量も少なく「公園道路」と言われていたものが、1960年代には1日平均5万台、70年代には8万台、80年代には9万台と車が増え続けます。これにあわせて、当初は暫定6車線であった道路が、昭和43年には全線10車線で運用されることになりました。
 こうして国道43号の沿線には、排気ガス・騒音・振動といった過酷な道路公害がもたらされました。昭和56年には高架の阪神高速が開通して2階建て道路となり、さらに道路公害が悪化します。その結果、国道43号線道路公害訴訟(昭和51年提訴)や尼崎大気汚染公害訴訟(同63年提訴)により、受忍しがたい公害発生源として住民から指弾されることとなっていきます。

昭和戦前期の本町通商店街(日雇辻〔ひようつじ〕と本町通がまじわる辻より東を望む、市広報課写真アルバムより)


現在の同地点(現西本町3丁目より東方向、五合橋交差点を望む)


尼崎旧城下都市疎開と国道43号


〔参考文献〕
『第二阪神国道工事誌』(建設省近畿地方建設局阪神国道工事事務所、昭和50年)
『ベイエリアは誰のものか─尼崎臨海地域の歴史的役割と課題─』(尼崎都市・自治体問題研究所編、自治体研究社、平成6年)

〔参照項目〕
 公害被害と反対運動、公害裁判については、本編第2節6第3節5同コラム参照


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